根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

 奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。

 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。目的のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。

 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑えにかかっている。仏教の世俗への介入を制限し、学問としての立ち返りを意図したのである。そうした甲斐あってこの時期、教義・学問面における論争が盛んになった。こうした時に登場したのが、最澄空海である。この2人の巨人の出現によって、日本の仏教は新しいフェーズに突入するのである。

 まずは最澄の紹介から。762年に近江滋賀郡の裕福な渡来系の家に生まれる。7歳のときに仏道を志し勉学に励み、19歳のときに東大寺で出家得度した。その後、比叡山に籠ること12年間、ひたすら修行と学問に励んだ。31歳の時、内供奉(ないぐぶ)という天皇に近侍する役に任じられる。その輝くばかりの才能と学識が評価され、桓武天皇のお気に入りとなる。以降、法華経の講義を始めたり、南都教学の諸師と共に天台の著作の講義に携わるなど、華々しい活躍が始まる。

 次に空海について。774年生まれで、最澄とは7歳年下である。讃岐国多度郡の生まれで、学問を始めたのは比較的遅く、15歳の時であった。18歳で当時の官僚養成機関である、京の大学寮に入っている。本格的な仏教の勉強を始めたのは、19歳の頃からのようだ。その後の修行経歴は明らかではないが、異能の人だったことは間違いなく、特に語学・文筆の分野においては天才的な才能を持っていたようだ。

 2人とも、804年の第18回遣唐使の一員として選ばれている。最澄桓武天皇自らの指名により、まだ日本に来ていなかった天台宗を学ぶため、多額の支度金(金銀数百両とも)を支給されての渡航であった。当時の日本の仏教界では有力な寺同士の教義解釈の違い――特に法相宗三輪宗との間で、激しい論争が行われていた。これを「空有の論争」と呼ぶが、実に100年近く続いている論争であった。「この両者の争いを包括的に収めることができる教義は、天台宗にある」と主張したのが最澄で、「じゃあ、お前が行って学んで来い」ということで選ばれたのであった。一方、空海は期間20年の長期留学生としての渡航であった。空海が選ばれた理由は不明であるが、特にその語学の才能が評価されたものと思われる。

 第18回遣唐使は4隻の船で構成されていたが、曲がりなりにも唐にたどり着いたのはその半分、空海が乗船していた第1船と最澄の第2船だけで、そういう意味でもこの2人が「持っていた」ことが分かる。

 804年9月に明州に着いた最澄は、天台山を中心に教えの伝授を受け、また天台宗関連を中心とした経典の書物(120部345巻とも)の入手に奔走した。当初の目的は十分果たしたので、予定通り次の年の3月には帰国するため明州に向かっている。そこで帰りを待つ間、越州龍興寺まで足を延ばし、当時流行していた密教を慌ただしく学んでいる。6月には対馬に着いているから、在唐期間は1年に満たない。

 一方、空海の乗っていた第1船は航路を外れ、8月に福州の長渓県というド田舎に漂着、そこで海賊の疑いをかけられてしまう。そこで嫌疑をさらすため上奏する嘆願書を書いたのが、一介の留学生に過ぎないが、文の達人であった空海であった。一行はその甲斐あって釈放されたが、そこから長安に辿り着くまで4か月もかかっている。結局、空海長安において本格的な勉強を始めたのは、翌805年の2月からである。

 5月になり、空海青龍寺・恵果和尚の元に弟子入りすることになる。この恵果和尚こそ、唐における密教の正統な継承者であり、唐の皇帝三代までもが師事を乞うたほどの高僧だったのである。驚いたことに恵果和尚は、遥か彼方から来た蛮族出身のこの新参者に、いきなり奥義伝授を開始するのである。

 その3か月後の8月には、空海は恵果より伝法阿闍梨位の灌頂(免許皆伝のようなもの)を受けている。それだけではなく、なんと正式な後継者の証である伝法印まで授かっているのだ。入社して間もない田舎者の新入りが、いきなり次期社長に選ばれるようなもので、信じられないスピードである。この4か月後の12月に恵果和尚は遷化してしまうのだが、このとき全弟子を代表して碑文を起草したのは、空海であった。

 その後、空海は20年の予定であった留学の予定を切り上げて、在唐期間わずか2年足らずで日本に帰国するのである。なぜ彼が帰国を早めたのかは分からないが、唐の役所に届け出た公の理由は「滞在費用がなくなったから」であった。空海は806年の10月には九州・博多に着いているが、独断での早期帰国であったため帰京の許しが出ず、2年ほど大宰府に滞在している。

 空海の帰京に力を貸したのは、最澄である。一足先に帰京し、天台宗を興した最澄であったが、当時の日本の支配層が欲していたのは、これまでの南都六宗と大差ない(ように見えた)天台の教えではなく、密教の教えであった。最澄は、皇族や貴族層らのそうしたニーズに応えて、帰国直前に越州龍興寺で学んだ密教の灌頂や祈祷を行ったのだが、これが大ウケしたのである。最澄の庇護者・桓武天皇などは大喜びで、「これまで密教は日本に伝わっていなかったが、最澄がこの道の達人となって日本に教えをもたらしたのは、素晴らしいことである。彼こそ国師である」といった旨を述べている。

 

天台宗の開祖にして比叡山を開いた、伝教大師こと最澄。間違いなく天才であったのだが、異能の人・空海に比べると、どうしても秀才のイメージになってしまうのは否めない。彼が日本にもたらした天台宗は、宗派としてはそこまで目新しいものではなく、実のところ既に日本に来ていた南都六宗よりも古いものであった。そういう意味では、天台の教えは南都六宗とそこまでかけ離れたものではなかったから、唐で学んだそのままでは新味がなかったといえる。

 

 しかし先の記事で述べたように、越州龍興寺にて最澄が受けた密教のトレーニングは慌ただしいものであり、学んだ真言も亜流であった。空海が学んだ密教こそが正統本流のものであり、また自身も恵果から伝法を授かった、正式な後継者でもあったのだ。空海は809年に入京しているが、最澄はすぐに空海に弟子入りする形で正式な密教を学んでいる。以後、こうした関係が7〜8年ほど続くが、ある事を契機として2人の仲は決裂、それぞれ別の道を歩むことになるのだ。

 それにしてもなぜ、当時の人々はそこまで密教に熱狂したのだろうか?それを知るには、密教の基本理念を知る必要がある。

 次の記事では密教の教えのユニークさと、空海の構築した壮大な理論について、ブログ主の理解した限りでなるべく平易に述べてみようと思う。(続く)