根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

 密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか?

 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力量不足を最も痛感していたのは、最澄自身であった。

 過去記事で少し触れたが、中国には2系統の密教が伝わっていた。「大日経」を根本経典とする「胎蔵部」と、「金剛頂経」を根本経典とする「金剛界部」である。越州龍興寺にて、最澄は一応は両部の灌頂を受けたことになっているが、ここで学んだ密教は亜流であり、不完全なものだったようだ。(最澄は自分が学んだ密教は、そもそも2つの流派が合体してできたものである、という経緯を知らなかった節がある。)

 ところが幸運なことに、金胎両部の教えを融合させた「大日如来法」という、最新の密教を確立させた青龍寺の恵果から、伝法を授かった人物が日本にいたのである。九州に逼塞していた空海である。最澄空海密教を教わるべく、その帰京に尽力する。そして空海の弟子となり、改めて密教を学びなおすのであった。このあたり、最澄の学問的誠実さが伝わってくる。自分自身に嘘をつけない人物だったのだろう。

 しかし彼の求める仏教のベースは、あくまでも天台宗にあったのである。大陸で彼は天台宗密教だけではなく、禅と戒律をも学んでいた。そこで彼は己が学んだ天台宗をベースとし、ここに密教・禅・戒律を融合させた「シン・天台宗」ともいえる、新しい天台宗の確立を目指したのである。この4つの教えを融合させることを「四宗融合」と呼ぶ。

 なぜ彼は、こうした考えに至ったのだろうか?俗人であるブログ主は、天台の教義を深く読み込んだわけではない。不完全な知識と邪推を承知の上で、以下にあくまで個人的な考えを述べる。

 日本の仏教界では、法相宗三輪宗との間で「空有の論争」と呼ばれる論争が行われており、最澄はこれを解決するのが天台の教えである、と力説して大陸に渡ったことは、過去の記事で述べた通り。最澄は中国の天台山に登り、そこで天台の最新教学を学び、意気揚々と帰国した。

 しかし当時の日本の支配者層は、実のところ論争の結果にそこまで興味はなかったのである。というよりも、はっきり言って南都六宗には飽き飽きしていた、というのが正しい。彼らにとって、南都六宗の教えは深遠かもしれないが、机上の空論をただ繰り返すだけの、マニアックな学問にしか思えなかった。現世利益を確約してくれる密教が、熱狂的なまでに受け入れられたのは、こうした背景があったからこそだ。

 最澄が持ち帰った天台宗も、その起源は実のところ南都六宗よりも古いものであり、彼らの目には南都六宗と大差ないものとして映った。なので最澄は、天台の教えをアップデートする必要性に駆られていたのである。そこで彼が大陸で学んだ他の要素――禅・戒律、そして何よりも密教をミックスさせ、新しいものとして生まれ変わらせようとしたわけである。

 そのためには、最もウケのよかった密教の奥義を、空海から学ぶ必要があった。最澄空海に、彼しか持っていない密教の経典の借用依頼を繰り返す。しかし密教の教義は、経典を読み込めば理解できるという教えではなかった。その真髄は師に実際に会っての実践修行でしか伝わらないものである、というのが密教の考え方なのである。

 この辺りを、もう少し詳しく解説してみよう。そもそも「密教」の名の由来は「秘密の教え」であり、教えの核心部分は師から弟子へと直接伝授する決まりであった。これは何故かというと、密教の教えは深遠で難解であるがゆえに、文のみで伝えることはまず不可能、口頭ですら伝えることが難しいからである。伝授の際には、その思想を構造図で示した「曼荼羅」を使用したり、三密を駆使する「観想法」の指導などを受ける必要があるのだ。

 

Wikiより画像転載。画像上が「胎蔵曼荼羅」、下が「金剛界曼荼羅」。深遠な教えである密教は、文字や言葉ですべて表現することはできない。そこで図表や絵画で表すことにしたのが「曼荼羅」である。なお、この曼荼羅という表現スタイルを生み出したのは、空海の師であった恵果であると考えられている。元々密教は2系統あったわけだから、恵果はそれぞれの教えに合わせて曼荼羅を造らせたわけである。この両者を併せて「両界曼荼羅」と称する。

 

曼荼羅は、必ずしも絵画様式のものとは限らない。上記画像は、東寺講堂に安置されている、大日如来を中心とした21体の群像と、その配置図である(Wikiより画像転載)。これは空海の構想によるもので、「羯磨曼荼羅」の一種と見なされている。つまり立体的な曼荼羅なのである。

 

 つまり密教の伝法は、五感を駆使して感じつつ学ぶもの、トータルな神秘体験なのである。だから空海は、最澄に対し「私の下で3年間学ぶべし」と来訪を促していた。しかし最澄もまた、生まれたばかりの天台宗の開祖でもあり、この時期は多忙を極めていた。実務を中断して空海の元に赴き、教えを乞うことは不可能だったのである。

 こうした経緯もあり、空海は遂には「理趣経」の解説書である「理趣釈経」の借用依頼を断ったのであった。(なお「理趣経」は、何事にも前向きな密教の教義にふさわしく、人間の欲望さえも肯定した内容の経典である。これを都合よく曲解したのが、過去の記事で紹介したカルト集団「彼の法集団」である。)

 

鎌倉期の京で流行った「彼の法集団」に関する記事は、こちらを参照。かなり危ないカルト集団であった。

 

 そもそも最澄にとって、天台と密教の教えは同じ「一乗(大乗仏教)」であったから、「融合は可能である」と考えていた。しかし空海にしてみれば、天台の教えは密教に内包されてはいるものの、(前記事の表にある通り)レベル10の密教の教えに至る前の、レベル8の教えでしかなかったのだ。両者の思想は根本的に相容れなかったといえる。

 同じ時期に、最澄の一番弟子である泰範が、カリスマ・空海のもとに移籍してしまったこともあり、2人の関係性は断絶する。密教の経典を入手できない以上、その教えを取り入れることは不可能だ。こうして天台と密教とを融合させんとする最澄の野心的な試みは、一旦は頓挫するのであった。

 また最澄自身も、天台の教義の確立のみに関わっている場合ではなかった。既存の南都六宗に対する、戦いが始まったのである。まず813年頃より、とある僧侶との間で教義上の激しい論争が始まる。日本仏教史において有名なこの教義上の論争を、「三一権実争論(さんいちごんじつそうろん)」と呼ぶ。(続く)