根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑧ 親鸞 「絶対他力」浄土真宗

 法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することなく慎重に対応したのである。

 その甲斐あって、この時はことなきを得たのだが、2回目のときはそうはいかなかった。何しろ時の最高権力者であった、後鳥羽上皇を怒らせてしまったのである。

 きっかけは1205年に、興福寺より朝廷に出された奏状である。内容としては第1回目と同じ、主に専修念仏の教えの停止を求めたものであった。これ自体はそこまで問題になったわけではなく、うまくやれば大過なく過ごせたかもしれない。

 しかし折悪しくこの奏状の件が解決しないうちに、次の年にとあるスキャンダルが発生したのである。後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下の僧、遵西・住蓮のひらいた念仏法会に参加したのである。これ自体は珍しいことではないのだが、両僧に啓蒙された女房たちが、なんと出家して尼僧となってしまう、という事件が起きたのであった。

 これをスキャンダルと書いたのは、遵西・住蓮らと女房らの不議密通の噂が流れたことによる。事実、上皇の不在中に女房らは遵西・住蓮らを呼んで法話を聞いており、その後に御所内に宿泊させているのだ。

 実際にコトがあったか否かは分からないが――学者によってはあった、とみる人もいるようだ。その場合、女房たちは火遊びがバレたので、慌てて出家した、ということになるかもしれないーーいずれにしても「上皇の不在中に御所に宿泊した」という揺るぎない事実はあったわけで、またこれは「あいつらはそういうことをしていても、おかしくないよな」と見られても仕方がない、一部の門下のこれまでの言動が招いた事態だといえる。

 遵西・住蓮ら4人は死罪、法然そしてその弟子らの多くも配流措置となった。これを「承元の法難」という。

 法然九条兼実の計らいで、土佐国から讃岐国への配流に変更される。讃岐では兼実の庇護下に置かれたとみられ、そこで10か月ほど布教したのち、赦免され摂津に移動している。そこで暮らすこと数年、ようやく帰洛が許され京へ戻ってくるのだが、長旅が応えたのか帰京してすぐに往生している。享年80、1212年1月25日のことであった。

 彼の死後、多くの弟子たちが分派することになる。その代表的なものが浄土宗・西山派そして鎮西派であるが、ここから更に分裂を繰り返し、あるものは消滅、またあるものは再び他宗と合流しなど、目まぐるしく変化していく。

 法然を祖とする、そんな数多ある宗門の中で最も巨大化したのは、やはり親鸞浄土真宗であろう。

 親鸞法然の教義の違いというものはそこまで大きくはないのだが、念仏の捉え方に若干の差異がある。過去の記事で、浄土に例えた机の上にいる阿弥陀仏に引き上げてもらうため、手を差し伸べる行為こそが、法然にとっての念仏である、と述べた。机に上がるためにジャンプしたり、よじ登る必要はないのであるが、手を差し伸べないと阿弥陀仏はその手を掴んでくれないのである。

 しかし親鸞にとっての念仏は違う。「南無阿弥陀仏」という称名念仏阿弥陀仏から人への呼びかけであり、それを理解した瞬間に浄土への道は約束されたと考える。その後に自然と口をついて唱える念仏は、阿弥陀仏への報恩、つまり「ありがとう」という気持ちでしかない、としたのである。

 親鸞のこの「絶対他力」は、法然の「他力」概念を更に強化させた感がある。こちらから手を差し伸べる必要さえなく、机の上に阿弥陀仏がいる、と気づくだけでいいのだ。ロジックとしては、仮に念仏を1回も唱えなくても、そのありがたみを理解しただけで浄土へ往ける、ということになる。ではあるが、それを理解した者は、結局は自然と南無阿弥陀仏と唱えてしまうことになるので、理解する=称名する、ということになるわけだ。

 さてこの親鸞であるが、法然の「選択本願念仏集」の写経を許された、数少ない高弟のひとりであり、先に述べた事件で法然が配流になった際も、その立場故に連座して越後に流されている――ということになっている。

 だがこうした親鸞の経歴は、ある程度は本人ないし、後年になって教団が脚色したストーリーなのではないか、という意見がある。次回はそのあたりを紹介したい。(続く)

 

本願寺蔵「安城御影」。絹本著色親鸞聖人像である。法然以上に「他力念仏の絶対性」を強調した「絶対他力」が、その教えの特徴である。そのわりには、親鸞はよく迷ったようだ。例えば重篤な風邪をひいたとき、念仏を懸命に唱えている。これは治療のため念仏であり、つまりは自力念仏ということになるわけで、途中で己の行為の無意味さに気づくのであるが、このエピソードが親鸞59歳の時である。85歳の時には、その著作で「如何に他力であることが難しいか」を詠じている。信心が重要であることは頭では分かっていても、つい救いを求めて念仏してしまうことがあったのだろう。彼は東国での布教に力を入れており、京に戻った後もその影響力は強かった。その名代として長男・善鸞を関東へ派遣するが、そののち義絶してしまうのだ。どうも関東では、加持祈祷などの人気が京以上に根強かったらしく、善鸞は布教の際にそうした方法論を取り入れていたようだ。これは絶対他力の発想からすると、看過できない問題であったとみられている。親鸞自身が晩年になっても「他力は難しい」と嘆息するほどであったから、実子や弟子たちも迷うことが多々あったようだ。