法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することなく慎重に対応したのである。
その甲斐あって、この時はことなきを得たのだが、2回目のときはそうはいかなかった。何しろ時の最高権力者であった、後鳥羽上皇を怒らせてしまったのである。
きっかけは1205年に、興福寺より朝廷に出された奏状である。内容としては第1回目と同じ、主に専修念仏の教えの停止を求めたものであった。これ自体はそこまで問題になったわけではなく、うまくやれば大過なく過ごせたかもしれない。
しかし折悪しくこの奏状の件が解決しないうちに、次の年にとあるスキャンダルが発生したのである。後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下の僧、遵西・住蓮のひらいた念仏法会に参加したのである。これ自体は珍しいことではないのだが、両僧に啓蒙された女房たちが、なんと出家して尼僧となってしまう、という事件が起きたのであった。
これをスキャンダルと書いたのは、遵西・住蓮らと女房らの不議密通の噂が流れたことによる。事実、上皇の不在中に女房らは遵西・住蓮らを呼んで法話を聞いており、その後に御所内に宿泊させているのだ。
実際にコトがあったか否かは分からないが――学者によってはあった、とみる人もいるようだ。その場合、女房たちは火遊びがバレたので、慌てて出家した、ということになるかもしれないーーいずれにしても「上皇の不在中に御所に宿泊した」という揺るぎない事実はあったわけで、またこれは「あいつらはそういうことをしていても、おかしくないよな」と見られても仕方がない、一部の門下のこれまでの言動が招いた事態だといえる。
遵西・住蓮ら4人は死罪、法然そしてその弟子らの多くも配流措置となった。これを「承元の法難」という。
法然は九条兼実の計らいで、土佐国から讃岐国への配流に変更される。讃岐では兼実の庇護下に置かれたとみられ、そこで10か月ほど布教したのち、赦免され摂津に移動している。そこで暮らすこと数年、ようやく帰洛が許され京へ戻ってくるのだが、長旅が応えたのか帰京してすぐに往生している。享年80、1212年1月25日のことであった。
彼の死後、多くの弟子たちが分派することになる。その代表的なものが浄土宗・西山派そして鎮西派であるが、ここから更に分裂を繰り返し、あるものは消滅、またあるものは再び他宗と合流しなど、目まぐるしく変化していく。
法然を祖とする、そんな数多ある宗門の中で最も巨大化したのは、やはり親鸞の浄土真宗であろう。
親鸞と法然の教義の違いというものはそこまで大きくはないのだが、念仏の捉え方に若干の差異がある。過去の記事で、浄土に例えた机の上にいる阿弥陀仏に引き上げてもらうため、手を差し伸べる行為こそが、法然にとっての念仏である、と述べた。机に上がるためにジャンプしたり、よじ登る必要はないのであるが、手を差し伸べないと阿弥陀仏はその手を掴んでくれないのである。
しかし親鸞にとっての念仏は違う。「南無阿弥陀仏」という称名念仏は阿弥陀仏から人への呼びかけであり、それを理解した瞬間に浄土への道は約束されたと考える。その後に自然と口をついて唱える念仏は、阿弥陀仏への報恩、つまり「ありがとう」という気持ちでしかない、としたのである。
親鸞のこの「絶対他力」は、法然の「他力」概念を更に強化させた感がある。こちらから手を差し伸べる必要さえなく、机の上に阿弥陀仏がいる、と気づくだけでいいのだ。ロジックとしては、仮に念仏を1回も唱えなくても、そのありがたみを理解しただけで浄土へ往ける、ということになる。ではあるが、それを理解した者は、結局は自然と南無阿弥陀仏と唱えてしまうことになるので、理解する=称名する、ということになるわけだ。
さてこの親鸞であるが、法然の「選択本願念仏集」の写経を許された、数少ない高弟のひとりであり、先に述べた事件で法然が配流になった際も、その立場故に連座して越後に流されている――ということになっている。
だがこうした親鸞の経歴は、ある程度は本人ないし、後年になって教団が脚色したストーリーなのではないか、という意見がある。次回はそのあたりを紹介したい。(続く)