根来戦記の世界

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日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑦ 鎌倉武士団 vs 元軍 「文永の役」戦いの様相

 元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんとした対策を講じている。具体的には「異国警固番役」の設置である。九州に所領を持つ東国御家人を鎮西に下向させ(これを契機として、九州に所領を持つ御家人の在地化が進むようになる。肥前千葉氏や薩摩島津氏など)、少弐資能大友頼泰の2名を沿岸警備の総指揮官としているのだ。

 次に北条得宗家内における、中央集権化の動き。これにまつわる騒動が1272年に発生した「二月騒動」である。謀反を企てたとして、鎌倉で名越時章・教時兄弟、京では時宗の異母兄・北条時輔がそれぞれ討伐されている。これによって幕府の統制を強化している。

 こうした動きから、鎌倉幕府も一応は危機感を持っていたことが分かる。鎌倉幕府禅宗を優遇していたから、大陸から多くの禅僧が来日していたのだが、その多くは元の南宋侵略から避難してきた僧だったのである。幕府は主に、この南宋ルートから情報を入手していたようだ。また「高麗史」には、日本から来たスパイ船が摘発された、という記録すら残っているのだ。

 さて佐渡で厳しい暮らしをしていた日蓮であるが、配流されているにも関わらず、彼の名は高まっていた。それはなぜかというと、未達成の予言のうちのひとつ、「国内での内乱発生」が当たったからである。

 日蓮はかつて日本を襲う災害として「異国からの侵略」の他、あともうひとつ「内乱」があると予言していた。72年2月に発生した、この「二月騒動」こそがその内乱であり、日蓮の予言が当たったのだ――そう受け止められていたのであった。

 そんな日蓮が赦免されたのは、74年の2月のことである。日本侵攻を決定した元は、この1か月前より高麗に大艦隊の建造を命じている。日蓮赦免のタイミングが、これと軌を一にするのは偶然ではないだろう。幕府はこのニュースを入手していたに違いなく、「侵攻の実現性が高まった」という危機感があったと思われる。(また忍性が赦免を働きかけた、という説もある。こちらもありそうなことである)

 まずはひとつ目の予言を的中させた日蓮。2つ目の予言の内容を聞くべく、時宗重臣平頼綱日蓮を鎌倉まで召喚する。頼綱は丁重な態度で、蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。すると日蓮は「年内の襲来は必然である」と答えたのであった。頼綱は「これは国難であるから、庄田一千町(三百万坪)の収益を上納するので、他宗批判をやめ一致団結して護国のための祈祷をせよ」と提案する。しかし日蓮はあくまでも諸宗への帰依を止めることが絶対条件である、としてその要請を拒絶したのであった。

 もはや鎌倉幕府に、我の言が用いられることはないだろう――そう考えた日蓮は、甲斐国身延山に引きこもることにしたのである。そこで彼は数多くの著作を記すことになる。

 そして74年10月、ついに元の大艦隊がやってきた。「文永の役」である。それなりに心構えができていたはずの幕府もまさか、3万を超える大軍勢がいきなりやってくるとは思ってもみなかっただろう。当時の日本の国力では、これほどの大軍勢を動員し、更にそれを渡海させるなど、想像もできないことだったのである。来るとしても、「刀伊の入寇」レベル(海賊3000人ほど?)程度のものだと考えていたのではないだろうか。(かつて日本も白村江に2万を超える大軍を送ったとされているが、数は大幅に水増しされていると思われる。いずれにしても、はるか遠い昔のことである)

 蒙古・高麗軍は対馬壱岐島に上陸、その地に住む人々を殺戮する。両島が陥落したことを知った鎌倉武士団は、北九州の兵力を結集する。そして博多湾に上陸した元軍に対して、総力を挙げ戦いを挑んだのであった。

 

文永の役」の戦いの様相については、こちらの本が大変に面白かった。史学者というものは、どうしても文献史料第一主義になりがちで、明らかにあり得そうにないことでも「一次史料にはそう書かれているから」で済ませてしまい、思考停止してしまうパターンが、たま~に見受けられる。この本の著者である播田安弘氏は、船舶設計に関わっていた技術者で、いわば船舶の専門家による物理的な観点から「文永の役」について考察した本なのだ。自説にとって都合のいい計算をしている印象もあるが、少なくとも上陸に関しては大変に説得力のある内容で、ブログ主は納得した。「文永の役」のほかにも「秀吉の中国大返し」と「戦艦大和は無用の長物だったのか」についての考察もある。

 

竹崎季長が奮闘する場面を描いた、国宝「蒙古襲来絵詞」。上記で紹介した「日本史サイエンス」によると、船舶の輸送能力から逆算して、元の戦闘部隊は歩兵を主体とした兵が2万6000ほど。日本側の兵力算定が難しいが、おそらく5000の騎馬と5000の歩兵で計1万ほどであったとしている。巷間言われているほど、兵力に差はなかったというのが、播田氏の主張なのである。更に問題なのは「土地勘のない敵地で大軍を敵前上陸させるのは、想像を絶するほど大変な手間と時間がかかったはず」ということである。元軍が博多湾沖に姿を見せたのは10月19日の夜遅くであるが、20日の朝8時頃には戦闘が開始されているのだ。真夜中に上陸するのは不可能なので、朝6時の日の出と共に揚陸を開始したとしても、猶予はたったの2時間しかない。元軍の先遣部隊は、まず上陸地点より先の赤坂まで進軍し、林の中に橋頭堡を築いていたようだから、最初に発生した「赤坂の戦い」の最中も上陸は進められていただろう。しかしその後の「鳥飼潟の戦い」において敗走した元軍は百道原・姪浜へと退却しており、ここまで来ると上陸地点である百道浜は大混乱で、揚陸どころではなかっただろう。これら一連の戦闘において、実際に上陸して戦った元軍の戦力は2万6000の30%以下、多くても8000ほどだったのでは?というのが播田氏の推察なのである。つまりは戦場での日蒙の兵力差は逆転していたのだ。戦いにおける戦傷者も多数発生していた(数千人規模?)こともあり、これこそが遠征軍がその日のうちに戦闘に見切りをつけて、撤退を決めた理由なのであった。

 

 いずれにせよ、本土における強襲上陸に失敗した元軍は、即日撤退することにする。しかし秋の日本海は荒波である。撤退した元の船は、帰途に強い南風に襲われ、その殆どは壱岐の湯本湾付近で海難事故に逢い、沈んでしまうのであった。日本軍の完勝である。

 日蓮元寇のことを「邪宗がはびこる日本を罰するため、神が日本に遣わした神罰」と捉えていた。「文永の役」において元軍が撃退されたと聞いても、その考えは揺るがない。日本にはまだ邪宗がはびこっているから、十分に罰されていない。だから元寇は再び来る、そう確信していたのである――そして予言は、三たび当たったのであった。(続く)