根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉓ 社会事業にまい進する忍性 亡国の危機に焦る日蓮

 日蓮は焦っていた。なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。

 彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことなのである。(なお、新義律宗の大ボス・叡尊北条実時・時頼両名に授戒する目的を果たした後、鎌倉における布教は忍性に任せ、すぐに奈良に帰っている)

 ここに至って、忍性を最大のライバルと認定した日蓮とその弟子は、このようなロジックで彼を攻撃している――「生身の仏のごとく崇められている忍性であるが、彼は財を蓄え、貸金業を営んでいる。教えと行いが乖離しているではないか。例えば、飯嶋の津においては関米を徴収しており、これに民は非常に迷惑している。また道を整備したり、川に橋を渡してはいるが、それも木戸を設けて関米を徴収するためではないか」――

 上記のことは、概ね事実である。忍性は新義律宗に改宗した念仏僧・観房より極楽寺を譲り受けており、境内に「浄地(じょうじ)」という施設を設立している。この「浄地」は「禁律に対する適当・合法」を意味する言葉で、本来禁止されているはずの利殖活動を行わさせるために創設された組織なのである。忍性は集めた寄付を一旦ここにプールさせ、利殖活動を仕切らせたのであった。彼はなぜ、こうした活動を行ったのであろうか。

 答えは単純で、「慈善活動するには金がかかるから」なのである。忍性らが行っていた慈善活動は、集まってきた貧しい人に米を配るだけ、などという短絡的なものだけではないのだ(勿論、それもやっていた。しかも1回につき数千人という規模で)。忍性の本当の凄さは、「温浴施設などを備えた療病院などの施設を各地に多く建て、それを恒常的に運営した」というところなのである。こうした施設の運営には、多額のランニングコストがかかる。その費用を捻出するために、利殖活動を行っていたのであった。

 

Wikiより転載、鎌倉・極楽寺。かつては浄土宗の寺であったが、忍性の入寺に伴い新義律宗の寺となり、今に至る。山中にある極楽寺を21世紀のいま訪れると、門は茅葺の屋根だし、境内は小さいしで、いい意味で鄙びた風情である。しかしかつては49の子院を要する大寺院であったのだ。右の画像は、極楽寺境内にある石造りの巨大な薬鉢であるが、これを使用して毎日大量の薬草が調合されていたものと思われている。施設には大量の病人や貧しい人を抱えていたわけで、銭米はいくらあっても足らなかっただろう。

 

極楽寺蔵「極楽寺古図」。中世の姿を描いたものだが、描かれたのは江戸期になってからである。どこまで再現性が高いかは不明だが、往時の大きさはイメージできるだろう。現在ある施設を、青い四角で囲って示してある。現存する極楽寺境内は、かつてのほんの一部であったことがよくわかる。丸い円で囲ったのが当時存在した、らい病患者ら病人のための施設である(馬のための病屋もある。これは武士が多い、鎌倉ならではのものだろうか)。現在、寺の門前を横切るように走っている江ノ島電鉄の路線であるが、かつてはここには極楽寺川が流れており、この谷沿いに非人たちの集住地があったと推測されている。

 

 次に日蓮が非難している「飯嶋の津で関米を徴収」や「道や橋を建てて木戸を設けている」点。これも事実ではあるが、やはり補足が必要であろう。

 まず鎌倉幕府であるが、この時点での幕府はあくまでも「(野蛮な)武士たちを統率する武門の棟梁」としての性格が強い組織なのだ。彼らに「国を治める」という責任感は極めて薄い。

 幕府も一応は、鎌倉近辺において「切岸・堀切・切通の整備」、「道路排水のための側溝工事」、「川の護岸などの土木工事」などは行っている。大きなものでは、在地武士と鎌倉を結ぶ「鎌倉往還」などの道路工事などもある。そしてこれらの維持管理のために「保奉行人」という役職が設置され、鎌倉市中の土地・道路の管理から橋の修理・道路掃除まで行っていたことが分かっている。

 しかし、これらのインフラ工事の殆どは「いざ鎌倉」という緊急事態の時のための備えであって、軍事的観点から整備したものなのである(結果的に庶民の役に立ったことはあるだろうが)。この頃の幕府には、まだ「民を富ます」という発想自体が存在しない。後年、江戸幕府が行ったような、新田開発などの生産力増大の試みや、港湾整備などのインフラを整える仕組みや能力を、そもそも持ち合わせていなかったのだ。

 では朝廷にはあったのかというと、こちらも幕府よりは些かマシ、というレベルでしかなかった。ではそれまでの日本における大規模なインフラ整備は誰がやっていたのかというと、主に寺社などの宗教勢力が担っていたのである。(空海による「讃岐国満濃池(まんのういけ)改修」などが有名である)

 前記事で少し触れたように、新義律宗は石工などの技術者集団を抱えていた。そこで幕府はそうしたスキルを持つ忍性らに、港湾や道路などのインフラ整備と保守運用を委託したのである。しかし幕府は言うだけで一銭も出さないから、費用は自分たちで捻出するしかなかった。それらを木戸銭や関米という形で回収していたのである。(なおこの時期、新義律宗は鎌倉近辺のみならず、全国の主要な港湾――西表津、博多津、尾道津、安濃津など――の整備運営を幕府より委託されていた)

 このように忍性の利殖活動には正当な理由があったわけで、公平に見て非難されるには及ばないだろう。しかし日蓮は止まらない。彼にしてみれば、止まるわけにはいかない事情があったのである。実は1268年の1月に、日蓮を更に焦らす大きな出来事が起きていたのだ。それは大陸を制覇した超大国・元から、大宰府に届いた国書の存在である。

 体裁としては日本との通好を求める内容だったのだが、その本質は「言うことを聞かねば、武力侵攻もあり得る」といった物騒なものであった。幕府はこれを侵略の前触れとして受け取り、黙殺することにしたのである。約1か月遅れでこの情報を知った日蓮は、これこそかつて「立正安国論」の中で自身が予言した、まだ実現してない残り2つの災害のうち1つ、「他国からの侵略」であると確信したのである。

 「このままでは日本は滅びてしまう」――国を救えるのは自分しかいない。そう考えた日蓮は、さらに過激な行動に出るのであった。(続く)