後期倭寇に参加した根来行人たち
こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側…
暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もい…
これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子…
さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。 瀝港(れきこう)が陥落した…
倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わって…
こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した…
さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた徐海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山など…
双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんし…
双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった、許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲…
16世紀の中国沿岸。福建省・広東省・浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、…