根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その② 双嶼壊滅と後期倭寇の始まり

 双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった、許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲い始めたのである。

 町を襲い、その地の富豪を誘拐し身代金をせしめる、などの暴挙に出た理由は、多額の借金にあったようである。許棟兄弟は4人兄弟であったが、うち許一と許三が海難事故にあってしまった。それによる損害を挽回するため、双嶼におけるポルトガル人の親玉のひとり、ランサロッサ・ペレイラから出資を募って、日本に向けて密貿易船を送り込んだのだ。だが思ったように利が上がらなかったらしく、当てが外れた許棟兄弟が手っ取り早く略奪行為を行って負債を返そうとした、というのが真相らしい。そうした経緯もあって、この略奪船団にはポルトガル人も多く参加していた、とある。

 これら一連の騒ぎが北京にまで届き、その対策として腕利きの官僚・朱紈(しゅがん)が浙江省巡撫(じゅんぶ)(一省の最高長官)として送り込まれてきたのが、1547年のことである。

 苦学の末、30前後の時に進士となった朱紈は、各地の諸官を歴任し、実績を上げてきた清廉剛直な官僚だ。そんな彼に、明の世宗・嘉靖(かせい)帝が下した勅諭には「このところ手つかずであった密貿易の徹底的な壊滅を命ずる。その為に福建省各地の海道提督軍務も掌握させる」旨が記されていた。要するに、このところ沿岸を騒がしている略奪集団の元凶である双嶼を潰せ、ということである。

 

倭寇図巻」より。侵略してきた倭寇を壊滅すべく、出撃する明の軍隊。

 

 朱紈は十分準備を整えた上で、翌1548年5月に双嶼を攻撃する。町は全て焼き払われ、賊で死んだ者は数え切れず、と伝えられている。この時、生け捕りにされた密貿易商人の中には、薩摩東郷出身の稽天(けいてん)と新四郎という2人の日本人がいた、とある。その後の尋問で、どのような経緯で双嶼にやってきたか自白した記録が残っている。この時代のグローバルな海運の状況が垣間見えて、興味深い。

 

kuregure.hatenablog.com

稽天について、より詳細な情報を知りたい方はこちらを。よくぞこんなマイナーな人物を調べて記事にしたものだと、感心する。

 

 この時に焼き払われた船は27隻、と伝えられている。思ったよりも少ないのは、うまく逃げ切れた船が多かった、ということだろう。王直の親分筋であった密貿易の大物・李光頭と、双嶼壊滅の原因をつくった許棟兄弟もこの時に脱出したが、その後の追撃戦で捕まって死刑となった。密貿易の片翼を担っていた、仏狼機賊(ふらんきぞく)――ポルトガル人の多くは広州の浪白澳(らんぱかう)へと逃れたが、その後マカオへと居を移すことになる。ちなみに許棟兄弟に金を貸したペレイラも、1549年に李光頭と一緒に福建省で捕まって、広東の牢獄で獄中死している。

 町は灰塵と化し、港は木石を以て埋められてしまった。繁栄を極めた密貿易都市・双嶼の短い黄金時代は、こうして終わりを告げたのである。

 なお、双嶼を壊滅させた朱紈の言葉として、次のようなものが残っている。曰く「外国の盗を去るのはやさしいが、中国の盗を去るのは難しく、中国瀬海の盗を去るのはもっとやさしいけれど、中国衣冠の盗を去るのが最も難しい」。

 要するに、李光頭や許棟兄弟ら密貿易集団のバックには中央と結託した郷紳らがいて、それらが利を貪っている。これら郷紳らをどうにかしないと効果がない、と皮肉っているのである。いずれ朱紈はわが身を以て、この言葉を証明することになるのだ。(続く)