根来戦記の世界

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根来衆と鉄砲~その② 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか

 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか。

 一般にも知られている鉄砲伝来のストーリーとしては、1542年、ないし43年に種子島に到着した中国人倭寇、王直の船に乗っていたポルトガル商人から、当主の種子島時堯(ときたか)が鉄砲を入手。うち1丁が津田監物(別名、杉乃坊算長。おそらく杉乃坊の親方であった、杉乃坊明算の弟)により、根来の地にもたらされた。日本の鍛冶屋は、日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐにこれを習得、西坂本や堺において鉄砲の生産が始まった――というものだ。

 

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王直と津田監物に関しては、上記の記事を参照

 

 

1992年に日本到着450周年を記念して、ポルトガルで発売された切手。額面は到達年とあわせて、42エスクードになっている。(ユーロ導入前)

 

 「鉄炮記」に記載されているこれらの経緯は、概ね事実であったようだ。だが、鉄砲の伝来ルートは1つだけではなかった、というのが最近の説だ。これは1540年代に日本を訪れた密貿易商人たちにより、様々な形式の火縄銃が「分散波状的」に日本に伝えられた、というもので、種子島への伝来もそのうちの1つにしかすぎなかった、というものだ。

 確かに中国の密貿易商人たちは、早くから仏郎機砲や火縄銃を使用していた形跡がある。密貿易の拠点であった双嶼が1548年に壊滅した際、攻めてきた明軍に対してこれら海賊どもは「大小の鉛子火銃」を発して攻撃してきた、とある。これは、仏郎機砲と火縄銃のことを指していると思われる。そもそも双嶼に巣くっていた海賊どもの半分近くはポルトガル人であったから、そうした火器で武装していたのは、当たり前といえば当たり前の話なのであるが。

 この明軍による双嶼攻撃の際に捕まった日本人に、稽天(けいてん)と新四郎がいる。この2人については以前の記事でも紹介したが、1548年3月に薩摩から双嶼へ交易のため向かっていたところ、不運にも明海軍の逍戒線に引っ掛かり、拿捕されてしまったのである。彼らの船は荷物と共に押収されてしまったのだが、明の記録にはその中には「番銃」2架があったとある。この「番銃」が仏郎機砲であったのか、それともインド・ポルトガル式火縄銃であったのか議論が分かれるところであるが、後者であった可能性もある。

 

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稽天と新四郎、そして密貿易港・双嶼の壊滅については上記の記事を参照。

 

 明の取り調べに対し、この2人の出身は薩摩の東郷で、船は「京泊」から出航したと述べている。当時、川内川の河口にある小さな港、京泊を貿易拠点としていたのは、東郷重治という薩摩の国衆であった。ちなみに彼の弟が後年、薩摩示現流の開祖となる、あの剣豪・東郷重位である。(――と書いたが、どうも年齢が合わないようである。兄ではなく、父ないし親族であったかもしれない。23年6月4日追記)

 この東郷氏は、2人が捕まった1年後の1549年6月1日に「黒川崎の戦い」において、島津氏とその旗下の種子島氏と戦っているのだが、実はこの戦いは文献上で確認される、日本史上初めて鉄砲が使用された戦闘なのである。

 加治木城を巡る戦闘で、攻守ともに「鉄砲を発し、数月を経て人の耳目を驚かしむ」という記述が「旧記雑録前編」という記録にある。鉄砲隊などが動員されるような本格的なものではなくて、1~2丁の鉄砲を個人レベルで放ったようなものだったのだろう。それでも戦闘終了後、数か月は人々の噂にのぼった様子が見て取れる。

 攻める島津氏の下には種子島氏がいたから、島津サイドが使用した鉄砲は(射ち手も)、種子島氏が用意したもので間違いないだろう。この鉄砲はポルトガル人から購入した、輸入品だったのだろうか?種子島に鉄砲が伝来してから6~7年経っているから、この時に使用されたのは極初期に生産された、プロトタイプの国産鉄砲であった可能性がある。

 一方、守る肝付氏の陣営には渋谷氏がいた。東郷氏はこの渋谷氏に連なる一族であったから、この戦いに参加していた。そして先に紹介した稽天と新四郎の例から分かるように、この時点で東郷氏は既に火縄銃を持っていたようだから、この戦いで使用された肝付サイドの鉄砲は、東郷氏のものであった可能性が高い。こちらは国産でなく、京泊ルートでポルトガル商人から購入した輸入品で、種子島ルートとは異なる方法で入手したものだったと思われる。或いは、「別の方法」で手に入れたのかもしれない。この「別の方法」に関しては次の記事で詳しく述べる。

 ちなみに東郷重治は1569年には島津家に降伏し、以降その傘下に入ることになるが、島津家の元で内之浦や山川といった、良港を有する地の地頭に任命されている。京泊を拠点とし、海外貿易に携わっていた重治の経験と知見が買われたのだろう。

 また大友家も1553年までには、種子島ルートではない鉄砲を交易によって手に入れていたようだ。海外から入手した鉄砲を、将軍義輝に献上しているのが文献上に確認できる。(続く)