根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来衆と鉄砲~その① 鉄砲と大砲 その開発の歴史

 根来と言えば、隣の雑賀と並んで鉄砲隊が有名である。戦国期に根来寺がここまで勢力を伸ばせたのは、間違いなくこの新兵器の威力によるものが大きい。このシリーズでは、根来衆と鉄砲に関わる歴史を見ていこうと思う。

 そもそも鉄砲、とは何か。辞典には「銃身を有し、火薬の力で弾丸を発射する装置」とある。当然、火薬の発見以降に開発された兵器になるわけだが、その前段となった武器が存在する。

 中国・南宋時代に、「火槍」という武器があった。これは「槍の穂先に火薬を詰めた筒をつけ、敵の前に差し出す」武器である。筒から発する火花と轟音を以て敵をひるます代物で、発想としては火炎放射器に近い。野戦に使える代物ではなく、攻城戦における守勢時に使われたようだ。

 ただこの「火槍」、近距離でしか使えなかったし、殺傷力も低かった。どうすればより強力な威力を発することができるのか、いろいろ試行錯誤してみた結果、あることに気づく。火薬に玉的なものを混入させてみると、それが凄い勢いで飛び出していくのだ。

 こうして「筒の中にある火薬を燃やし、火花を敵に浴びせる」兵器から「筒の中にある玉を、火薬の燃焼により敵に発射する」、つまり鉄砲と同じ原理の武器が出現したのである。

 

Wikiより画像転載「火龍神器陣法」より。使っているうちに何か混ぜた方が効果的であることに気づいたのであろう。こうした鉄片や石を「子案」と呼び、この子案を詰めて発射する火槍を「突火槍」という。初期の砲身は暴発する危険もあったから、あまり大量の火薬は詰められなかった。威力もそう大きなものではなかっただろう。

 

 筒の素材を竹から鉄へと変え、耐久力と共に威力も上がった管状兵器は、13世紀末までには中国で実用化され、2種類の方向に進化していくことになる。1つが大型化、つまりは大砲への進化で、中国ではこれを「銃筒」と総称している。この兵器はイスラム世界を介してヨーロッパにも伝わり、かの地で「射石砲」から「攻城砲」や「艦載砲」へと進化していく。

 もう1つの方向性は携帯用の小型化だ。アラビア世界においては「マドファ」、ヨーロッパでは「ハンドキャノン」として進化し、それぞれ戦場で活躍することになる。とくに15世紀のボヘミアにおけるフス戦争では強力な威力を発揮し、板金鎧を装着した騎士たちをなぎ倒している。

 中国においては、突火槍をより進化させたこれを「手銃」或いは「鋼銃」と称した。明の初期、鄭和の大艦隊がジャワにおいて使用したという記録がある。14世紀から15世紀にかけて、アジアではこの手銃が広く伝播している。実は日本にも来ているのだが、あまり存在感がない。

 1466年に相国寺の僧が残した記録に、足利将軍を訪れた琉球人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせた、とある。これがこの種の武器の、文献上で確認できる一番古い記録である。その2年後に太極という僧が「応仁の乱」最中の1468年に、東軍の陣営で「飛砲火槍」を見た、という記録があるので、一応戦場でも使われたようではあるのだが・・・また「北条五代記」1510年の記事に「中国から鉄砲がもたらされた」という内容があるが、これも火縄銃ではなく、この手銃のことだと推測されている。

 この「手銃」は木の柄に装着して、上部の点火孔から着火して発射するという仕組みだ。左手で銃身を保ちつつ、右手に持った棒状の火種(熱した針金などが使われた)で着火するわけだから、狙いを定めるのは難しかった。

 

Wikiより画像転載。上記はヨーロッパタイプのハンドキャノン。この着火方法を「タッチホール式」と呼ぶ。この方法だと、狙いは大まかにしかつけられなかった。この時期の日本各地の記録に散見される「鉄放」や「飛砲火槍」も、このタイプの手銃であったと思われる。

 

 射手と着火手の二人一組で撃つ場合もあったが、人手が倍かかる。そこでドイツはニュルンベルグで発明されたのが、火縄とS字金具の組み合わせの着火機構である。S字型の金具の片方に火縄を括り付け、反対側にあるもう片方を引くことで、火縄が点火孔にスポッと入って着火する仕組みである。「引き金」の誕生である。

 この発明により、両手で銃身を支えられるようになり、安定した姿勢での射撃が可能となった。更に不発防止のため、点火孔ではなく火皿を装着するようになる。こうした工夫の末、出来上がったのが火縄銃なのである。これを「緩発式火縄銃」と呼ぶ。この銃の形式はドイツからオスマントルコに伝播、かの地で「ルーム銃」へと進化し、西アジアへと広まっていく。

 一方、ボヘミアにおいて発明されたのが「瞬発式火縄銃」である。基本的な原理は上記と変わらないが、着火機構にバネを使用しているので、引き金を引く、或いはボタンを押してから発射までのレスポンスが早かった。ポルトガルに伝わったのはこちらの方である。ポルトガルの海外進出に伴い、海上経由で各地へと伝播していった。

 

 


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火縄銃の着火の瞬間。スーパースローで撮影している。とても分かりやすい。

 

動画元のサイト「松本城鉄砲蔵」さんのHPより。瞬発式火縄銃の着火機構の説明図。HPには「発砲の仕組み」なども詳しく解説されている。下記がリンク先。

 

 14~15世紀に西欧において発明されたこの火縄銃、逆輸入のような形で中国に入ってきたのは1500年初頭のようである。中国ではこれを「鳥銃」と称した。トルコ系の緩発式・ルーム銃が陸上ルートから、ポルトガル系の瞬発式・エスペンガルダ銃(スペイン語ではアルカブス銃)が海上ルートから、2種類の火縄銃がほぼ同時に伝播したとみられている。

 だが中国においては、鳥銃はあまり普及しなかった。どうも鍛鉄による製造がうまくいかず、代わりに鋳造で銃身をこさえたようなのだが、それでは本来の性能を発揮できなかったようだ。朝鮮半島で日本軍と戦って、その威力を思い知ったのち、ようやく鳥銃、特にルーム銃の鍛鉄生産に本腰を入れることになる。

 鋳造で造る大砲の方は、ポルトガルと交戦した1520年代にその存在を知り、製造技術をいち早く取り入れて生産に着手している。1528年には4000門もの小型「仏郎機(フランキ)砲」を生産したのを皮切りに、中国全国の城塞や艦船に配備されていくことになる。こうした動きは日本とは逆で、興味深い。

 

遊就館蔵「仏郎機砲・国崩し」。この大砲の画期的なところは、射出機構がカートリッジ方式になっているところだ。カートリッジである「子砲(ねほう)」には、火薬と砲弾が詰められており、それを砲身の根元にある薬莢部にはめ込み、着火して撃つ仕組みだ。これをたくさん用意しておき、撃ち終わったらすぐに交換すれば、連射が可能となる。ただし構造上、子砲は砲身よりも小さく設計せざるを得ず、薬莢部から大量のガス漏れが発生した。結果、エネルギーが分散されてしまったので、尾栓が密閉されていた前装式大砲に比べると、威力が遥かに劣る上、暴発の危険性まであった。撃ち出される砲弾も砲身の口径よりかなり小さくならざるを得ず、弾道が安定せず命中率も低かった。なのでコンセプト的には劣っているはずの、前装式の大砲にいずれ取って代られてしまうのである。発想は良かったのだが、当時の工作技術ではそれを生かすことができなかったのだ。この技術的欠陥が解消されるのは19世紀に入ってからで、砲尾部に近代的な閉塞機構が発明されるのを待たなければならなかった。以降は再び後装式の大砲が主流となる。幕末に活躍したアームストロング砲がそれである。

 

 海路を使ってアジアにいち早く到達していたポルトガル人だが、ゴアやマラッカに大規模な火器工廠を建てている。上記画像にある「国崩し」は、大友氏が戦さにおいて実際に使用したものだが、ポルトガル人から購入したゴア製のものであった。

 また数多くの火縄銃も、こうしたアジア各地の火器工廠で生産されていた。これらは全て「引き金式・頬つけ型・瞬発式」の火縄銃で「インド・ポルトガル式火縄銃」と呼ぶ。日本の種子島にやってきた鉄砲もこの型で、おそらくはマラッカ製の鉄砲だったと思われる。(続く)