根来と言えば、隣の雑賀と並んで鉄砲隊が有名である。戦国期に根来寺がここまで勢力を伸ばせたのは、間違いなくこの新兵器の威力によるものが大きい。このシリーズでは、根来衆と鉄砲に関わる歴史を見ていこうと思う。
そもそも鉄砲、とは何か。辞典には「銃身を有し、火薬の力で弾丸を発射する装置」とある。当然、火薬の発見以降に開発された兵器になるわけだが、その前段となった武器が存在する。
中国・南宋時代に、「火槍」という武器があった。これは「槍の穂先に火薬を詰めた筒をつけ、敵の前に差し出す」武器である。筒から発する火花と轟音を以て敵をひるます代物で、発想としては火炎放射器に近い。野戦に使える代物ではなく、攻城戦における守勢時に使われたようだ。
ただこの「火槍」、近距離でしか使えなかったし、殺傷力も低かった。どうすればより強力な威力を発することができるのか、いろいろ試行錯誤してみた結果、あることに気づく。火薬に玉的なものを混入させてみると、それが凄い勢いで飛び出していくのだ。
こうして「筒の中にある火薬を燃やし、火花を敵に浴びせる」兵器から「筒の中にある玉を、火薬の燃焼により敵に発射する」、つまり鉄砲と同じ原理の武器が出現したのである。
筒の素材を竹から鉄へと変え、耐久力と共に威力も上がった管状兵器は、13世紀末までには中国で実用化され、2種類の方向に進化していくことになる。1つが大型化、つまりは大砲への進化で、中国ではこれを「銃筒」と総称している。この兵器はイスラム世界を介してヨーロッパにも伝わり、かの地で「射石砲」から「攻城砲」や「艦載砲」へと進化していく。
もう1つの方向性は携帯用の小型化だ。アラビア世界においては「マドファ」、ヨーロッパでは「ハンドキャノン」として進化し、それぞれ戦場で活躍することになる。とくに15世紀のボヘミアにおけるフス戦争では強力な威力を発揮し、板金鎧を装着した騎士たちをなぎ倒している。
中国においては、突火槍をより進化させたこれを「手銃」或いは「鋼銃」と称した。明の初期、鄭和の大艦隊がジャワにおいて使用したという記録がある。14世紀から15世紀にかけて、アジアではこの手銃が広く伝播している。実は日本にも来ているのだが、あまり存在感がない。
1466年に相国寺の僧が残した記録に、足利将軍を訪れた琉球人が退出の際に「鉄放」を放って京の人を驚かせた、とある。これがこの種の武器の、文献上で確認できる一番古い記録である。その2年後に太極という僧が「応仁の乱」最中の1468年に、東軍の陣営で「飛砲火槍」を見た、という記録があるので、一応戦場でも使われたようではあるのだが・・・また「北条五代記」1510年の記事に「中国から鉄砲がもたらされた」という内容があるが、これも火縄銃ではなく、この手銃のことだと推測されている。
この「手銃」は木の柄に装着して、上部の点火孔から着火して発射するという仕組みだ。左手で銃身を保ちつつ、右手に持った棒状の火種(熱した針金などが使われた)で着火するわけだから、狙いを定めるのは難しかった。
射手と着火手の二人一組で撃つ場合もあったが、人手が倍かかる。そこでドイツはニュルンベルグで発明されたのが、火縄とS字金具の組み合わせの着火機構である。S字型の金具の片方に火縄を括り付け、反対側にあるもう片方を引くことで、火縄が点火孔にスポッと入って着火する仕組みである。「引き金」の誕生である。
この発明により、両手で銃身を支えられるようになり、安定した姿勢での射撃が可能となった。更に不発防止のため、点火孔ではなく火皿を装着するようになる。こうした工夫の末、出来上がったのが火縄銃なのである。これを「緩発式火縄銃」と呼ぶ。この銃の形式はドイツからオスマントルコに伝播、かの地で「ルーム銃」へと進化し、西アジアへと広まっていく。
一方、ボヘミアにおいて発明されたのが「瞬発式火縄銃」である。基本的な原理は上記と変わらないが、着火機構にバネを使用しているので、引き金を引く、或いはボタンを押してから発射までのレスポンスが早かった。ポルトガルに伝わったのはこちらの方である。ポルトガルの海外進出に伴い、海上経由で各地へと伝播していった。
火縄銃の着火の瞬間。スーパースローで撮影している。とても分かりやすい。
14~15世紀に西欧において発明されたこの火縄銃、逆輸入のような形で中国に入ってきたのは1500年初頭のようである。中国ではこれを「鳥銃」と称した。トルコ系の緩発式・ルーム銃が陸上ルートから、ポルトガル系の瞬発式・エスペンガルダ銃(スペイン語ではアルカブス銃)が海上ルートから、2種類の火縄銃がほぼ同時に伝播したとみられている。
だが中国においては、鳥銃はあまり普及しなかった。どうも鍛鉄による製造がうまくいかず、代わりに鋳造で銃身をこさえたようなのだが、それでは本来の性能を発揮できなかったようだ。朝鮮半島で日本軍と戦って、その威力を思い知ったのち、ようやく鳥銃、特にルーム銃の鍛鉄生産に本腰を入れることになる。
鋳造で造る大砲の方は、ポルトガルと交戦した1520年代にその存在を知り、製造技術をいち早く取り入れて生産に着手している。1528年には4000門もの小型「仏郎機(フランキ)砲」を生産したのを皮切りに、中国全国の城塞や艦船に配備されていくことになる。こうした動きは日本とは逆で、興味深い。
海路を使ってアジアにいち早く到達していたポルトガル人だが、ゴアやマラッカに大規模な火器工廠を建てている。上記画像にある「国崩し」は、大友氏が戦さにおいて実際に使用したものだが、ポルトガル人から購入したゴア製のものであった。
また数多くの火縄銃も、こうしたアジア各地の火器工廠で生産されていた。これらは全て「引き金式・頬つけ型・瞬発式」の火縄銃で「インド・ポルトガル式火縄銃」と呼ぶ。日本の種子島にやってきた鉄砲もこの型で、おそらくはマラッカ製の鉄砲だったと思われる。(続く)