日本人はあっという間に鉄砲の生産技術を習得、世界有数の鉄砲保有国になってしまう。戦国期の日本は、どれくらい鉄砲を有していたのだろうか?
もちろん統計なぞないから、推測するしかない。まず時代が経てば経つほど鉄砲普及率は上がっていくはずだ。戦国前期と後期とでは数字がかなり異なるだろうというのは、想像に難くない。ネット上では「10万丁以上」という人もいれば、「100万丁」という数字をあげているものまである。ただこれらの数字がいつの時代を指しているのか、またどこから出ているのか、出典を示していないのでよく分からないものが多い。
鉄砲に関する研究の先駆者、鈴木真哉氏の著作「鉄砲と日本人」には、参考になりそうな時代別のデータが幾つか載っている。それによると大坂の陣における幕府自身の動員基準は、1万石につき兵数3000人・うち鉄砲が20丁、とある。兵力との比率に直すと6.6%である。ただこれは、最低限持ってこなければいけない数字なので、実際にはもっと多かったようだ。極端な例だが、奥州の伊達家は冬の陣で戦闘員の66%が、夏の陣では63%が銃兵であったそうだ。(政宗なら如何にもやりそうなことである)
上記の数字を基に、控えめに見て全体の兵力との鉄砲比率を20%と見ると、大坂冬の陣における動員兵力は、東西両軍併せて30万近い数字だったはずだから、この戦場に集まった鉄砲だけでも6万丁はあった計算になる。大坂に持って行かなかった鉄砲もあるはずだから、少なくともその1.5倍、全国には9~10万丁はあったということになる。20%の計算でこれであるが、そもそも大坂の陣は攻城戦であることだし、この比率は30%、或いはそれ以上であってもおかしくないのだ。(この計算は筆者が独自に行ったもので、鈴木氏がそう主張しているわけではない。念のため・・・)
豊臣家が滅びると、太平の世が訪れる。約250年に渡って続く、パクス・トクガワーナの時代である。幕府は鉄砲の規制に乗りだし、日本における鉄砲生産数は大きく下がり、そのまま幕末を迎える――というのが一般的なイメージかもしれない。だが、全然そんなことはないのだ。
鉄砲がどれほどあったのかを、今度は石高との比率で推測してみよう。鈴木氏は江戸時代のデータも示している。それによると1649年に幕府によって定められた軍役では、1万石で20丁(石高比0.25%)、10万石で350丁(石高比0.4%)である。石高が上がれば上がるほど、鉄砲比率が上がっていく仕組みである。先述したように予備も必要だったから、実際にはもっと多くの鉄砲を所持していたことだろう。1637年の島原の乱の際、筑前の黒田家の石高は5万石だったから、150丁(石高比0.3%)用意すれば十分であったのだが、実際には218丁(石高比0.4%)の鉄砲を用意している。
これらは軍役から逆算した理論値なわけだが、実数とはどれくらい乖離があるのだろうか?実は江戸幕府は、島原の乱の約40年後の1687年に、将軍綱吉の命により「諸国鉄砲改め」を行っている。これは各藩が所持している鉄砲の実数を報告させたものなのだが、この実態が凄いのだ。
この時の調査によると、仙台藩で3984丁、尾張藩で3080丁、長州藩4158丁という数字である。紀州藩ではすこし遅れて1693年に調査を行っているが、なんと8013丁(!)である。流石は雑賀と根来があった、お国柄だけのことはある。上記4藩だけで合わせると、なんと1万9235丁である。
上記の数字を、石高に比した計算式に当てはめてみよう。4藩合わせてざっくり170万石である。(「元禄郷帳」に基づいて計算した。藩には「飛び地」があるはずだが、それらは除いてある。単純に仙台・尾張・長州・紀州4つの国の表高を合算しただけなので、あくまで目安である。)170万石に対して、約2万丁。石高比で1.2%である。17世紀後半の日本の石高は2591万石とあるので、この比率を単純に全国に適用すると、25万9100丁になり、なんと大坂の陣の時より多いのである。(この計算も、著者が独自に行ったものである。)
これでも控えめな見積もりで、故意にカウントしなかった鉄砲や、藩が把握しきれなかった鉄砲もあったはずだから、実際にはもっと多かったはずなのだ。事実、幕末の役人による「把握していない鉄砲の方が、遥かに多かった」という証言が残っている。そう考えると、この倍あってもおかしくない。
この数字のからくりは軍役に反映されない、民間に鉄砲が多く普及したことによる。害獣駆除や狩猟などに使われていたのだ。対馬藩が1711年に行った調査によると、藩内には何と1402丁の鉄砲があったという。当時の対馬の20~60歳の男性人口は、約3900人である。1人で何丁も持っていたケースもあるだろうから、単純に計算はできないが、この時期の対馬では成人男性の約3割が鉄砲を持っていたことになる。
対馬本島は地形上の制約で耕作地が少なかったので、害獣による稲作被害にひどく神経を尖らせていた。イノシシから畑を守るために、交代で徹夜して畑を守った、という古老の話が残っている。害獣に畑を荒らされる程度で飢えてしまうほど収穫高が少なかったから、その対策として鉄砲保有率が異様に高かったのである。対馬の例はかなり特殊ではあるのだが、江戸期に如何に民間に鉄砲が普及していたかよく分かる。
江戸期においては、このように鉄砲は身近に使われる道具であったのだが、あくまでも狩猟道具としてであった。日本では島原の乱を最後として、以降大きな戦いは発生しなかったから、戦場における鉄砲の技術的な改良、そして運用・戦術面での進化はなされず、止まったままであった。それどころか戦いに鉄砲を使用する、という概念まで廃れてしまう有様であった。幕末の初期における稚拙な鉄砲運用は、戦国期に比べると退化してしまった感まである。(続く)
長篠の戦いを分析し、その実態は攻城戦であったことを明らかにするなど、戦国期における鉄砲の使われ方の認識を変えた、鈴木氏の名著。やや古い本になるが、戦国期の鉄砲の基礎的な概念を知るためには、最適の本である。