根来戦記の世界

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根来と雑賀~その② 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(上)

 先の記事での紹介した通り、雑賀衆根来衆も傭兵稼業に従事していたから、戦場において敵味方に分かれて殺し合いをすることは、珍しいことではなかった。ただ源左衛門の記録を見る限りではその殆どは、小規模な集団同士での局地戦であったようだ。

 では根来と雑賀が、それなりの数の軍勢を率いて戦場で戦ったことはあるのだろうか?それがあるのだ。過去の記事でも少し触れた「天王寺合戦」において、両部隊が直接、銃火を交えている。この記事ではその天王寺合戦、そしてそこに至るまでの経緯を紹介していきたいと思う。

 まず前段として「石山合戦」について言及しなければならない。これは1570年10月から1580年9月まで、ほぼ10年に渡って続いた本願寺と信長の戦いである。期間中ずっと戦っていたわけではなく、休戦と開戦を何度も繰り返しつつ、断続的に続いた戦役であった。

 この一連の戦いには、雑賀・根来衆が大勢参加していたので、鉄砲が活躍した戦いでもあった。特に本願寺の主力は雑賀の鉄砲隊、というイメージが強い。しかしながら開戦時点で、雑賀衆全てが本願寺サイドについていたわけではない。紀伊守護の畠山秋高が、信長の義娘のひとりを娶っていた関係上、開戦当初は雑賀衆のほとんどは(そして根来衆も)信長サイドについていたのだ。

 このとき本願寺サイドについていた雑賀衆は、雑賀孫一鈴木重秀)率いる一党である。どうやら彼とその一党は、石山合戦が始まる前から三好三人衆の元で傭兵活動をしていたようで、その延長線上で本願寺に味方した、という流れのようだ。ちなみに過去の記事で言及したように、佐武源左衛門も孫一と同じように三好三人衆に雇われ、織田方と戦っていた。その後、彼は淡路辺りの戦いに参加していたので、石山合戦の緒戦には参加してない。(していたらきっと、自慢していたことだろう)彼が参加するのは、もうちょっとしてからだ。

 この開戦時の様子を、興福寺の坊官・二条宴乗はその日記に「本願寺が色めき立ち、一向一揆勢が鉄砲を放ちかけた」と、まずは鉄砲により合戦の火ぶたが切られた様子を記している。

 

和歌山市立博物館蔵「石山戦争図」。石山本願寺は多くの河川と丘陵を利用した砦によって守られた、一個の巨大な城塞群であった。こうした難攻不落の地形に加えて、防御時に最もその威力を発揮する、鉄砲隊を有する雑賀衆がいたために、信長は苦汁を飲まされることになる。

 

 「信長記」において「根来・雑賀・湯川・紀伊州奥郡衆二万の兵に(中略)鉄砲三千丁有り、敵味方の鉄砲を放つ轟音が天地に鳴り響いた」と記していることから、雑賀孫一の一党 vs 雑賀衆根来衆の射撃戦が繰り広げられたことがわかる。孫一率いる一党は、その党だけで残りの雑賀衆、そして根来衆と渡り合っているわけだから、相当数の鉄砲隊を持っていたということになる。なお紀州勢で「鉄砲三千丁有り」とあるが、これは単に「多い」という意味で使っているらしく、実数を深追いしてはいけないようだ。

 「陰徳太平記」という書物には、この石山合戦の緒戦に「根来清祐」率いる「越前・加賀・紀伊丹波」から集まってきた、鉄砲打ちたちのことが載っている。それによると、「蛍」・「小雀」・「下針」・「鶴の頭」・「発中」・「但中」・「無二」などの異名を持つ名手らがいた、とある。

 カッコいい通り名なので、彼(彼女)らは戦国期を題材とした小説やゲームでは、よく取り上げられているようだ。ただこの「陰徳太平記」自体が1717年になって出版された、虚飾が多く信頼性が低いと評価されている軍記物で、それ以前の記録にはこうした名手たちの名は一切登場しないことから、執筆時に創作されたキャラであると見られている。

 石山合戦で鉄砲隊が最も威力を発揮したのは、前記事で紹介した、1576年に行われた「天王寺の戦い」である。この戦いでは特に雑賀衆の鉄砲隊が大活躍したわけだが、その理由として、この2年前の74年あたりから雑賀五組が概ね、本願寺サイドについていたことが挙げられる。

 雑賀が本願寺にオールインしたのはなぜか。もちろん信仰の力の影響もあっただろう。追い詰められた本願寺は、執拗に雑賀門徒衆に助けを求めていた。いざというときの退去先を、雑賀庄にある鷺森道場に決めていたほど、頼りにしていたのである。雑賀が本願寺の本山にもなりうる、そんな可能性を提示された雑賀門徒衆は、色めき立ったことだろう。

 先の記事でも触れたが、雑賀の人間全てが本願寺門徒であったわけではない。この点が越中などの一向一揆衆と違うところで、武内善信氏による研究によると、戦国期の雑賀における本願寺門徒の割合は、人口の25~30%ほどであったらしい。例えば、雑賀庄において鈴木孫一と並ぶ有力土豪であった土橋氏は、浄土宗西山派門徒だったし、更には根来四院のひとつである泉識坊を根来寺に置いていたから、真言宗ともつながりがあった。にもかかわらず、これら非本願寺門徒衆まで本願寺サイドについているのだ。

 これは信長に追放された足利義昭が、紀州興国寺に居を移し、この地から反信長戦線の結成を謀ったことによる。当時の人々にとっては、足利将軍の権威はまだ大きかった。その将軍が紀州に落ちてきたのだ。オール雑賀として、これを盛り立てていかねばならぬ、そんな雰囲気が根底にあったようだ。またこの2~3年前に、紀伊守護であった畠山秋高(信長の娘婿)が部下の遊佐信教に殺されている。これで建前上も、守護に遠慮する必要もなくなった。こうした流れに雑賀の門徒らが勢いづいて、本願寺に味方する方向に全体を引っ張っていったものと思われる。(ただ雑賀五組すべてがやる気満々だったわけではなく、それぞれ濃淡があった。特に、宮郷・中郷・南郷の三組においては、そこに住まう本願寺門徒は進んで参加したようだが、それ以外はそうでもなかったようだ。)

 1576年の4月から、信長は旗下の兵力を動員して、大阪の本願寺を包囲する。二度の休戦と開戦を経て始まった、第三次大阪合戦である。そしてこの戦役中に発生した「天王寺合戦」において、信長方の根来衆本願寺方の雑賀衆が戦場で相対することになるのだ。(続く)