倭寇に参加した根来行人、そして世界に広がった日本人たち
オランダ勢力を駆逐して、台湾を手に入れた鄭成功はさらに南方、スペイン人の占領するフィリピンに目を向ける。彼の旗下にいたイタリア人修道士をマニラに遣わし貢納を要求した、という記録が残っている。これは現地のスペイン人に、ちょっとした恐慌を巻き…
当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であ…
長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。 1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語、オランダ語など…
東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカで…
サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長・山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。 1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマとラオス連合軍に侵略された際には、500人の日…
アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラ…
ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次…
日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのがルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている日本人が率いていた倭寇集団である。1582年に、この倭寇集団とスペインとの間で「カガヤンの戦い」が行われている。 この「タ…
後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」と…
こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側…
暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もい…
これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子…
さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。 瀝港(れきこう)が陥落した…
倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わって…
こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した…
さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた徐海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山など…
双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんし…
双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった、許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲…
16世紀の中国沿岸。福建省・広東省・浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、…
1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ…
前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と…
倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかと…