根来戦記の世界

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晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑤ 東南アジアにおける日本人傭兵たち

 サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマラオス連合軍に侵略された際には、500人の日本人傭兵がアユタヤ側に雇われて戦った、とある。1596年1月18日には、スペイン軍のカンボジア遠征に日本人傭兵団が参加している。2年後に行われた同遠征にも、別の日本人傭兵団が雇われている。このように大小さまざまな規模の日本人傭兵団が、東南アジア各地にいたということだ。

 

静岡浅間神社蔵「山田長政 日本義勇軍行列の図」より。タイの軍団と共に行進している日本人軍団。薙刀らしきものを肩に担いでいる。この時代の東南アジアにおいては、優れた武器であった日本刀の需要は高く、刀身を輸入して加工し、槍の穂先につけるなどしていた。この薙刀も或いはそうかもしれない。

 

 自由な身分の兵士ばかりだったわけではなく、奴隷兵士たちも多かった。インド・ポルトガル領ゴアの市参事会の記録に「島を守備するために、日本人奴隷の兵士が必要だ」とある。だが、同じ文書に「日本人奴隷が解放されると、現地人と結託して反乱を起こす恐れがある」とも記されている。相当な数の日本人奴隷が兵士として働いていて、その戦闘力が評価されていた(そして恐れられていた)ことが分かる。

 オランダ東インド会社は、その本拠をバタヴィア(現在のジャカルタ)に置いた。1620年1月に行われた、バタヴィアにおける人口調査では873人の住民が記録されているが、そのうち71人が日本人であった。12人に1人というかなりの割合になるが、その殆どが傭兵であったらしい。

 翌21年に、バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが自ら兵を率い、ナツメグの産地であるバンダ諸島で現地住民の大虐殺を行う。島民の90%以上、約1万2000人を殺害、もしくはバタヴィアに連行し奴隷にして売り払ったと言われている。この悪逆非道の行為によって、クーンには「バンダの虐殺者」という異名がつくのだが、これに参加した2000の兵のうち、87人がクーン直轄の日本人傭兵であったそうだ。彼らは刃物の扱いに長けていたので、特に斬首刑の執行役として重宝されていたようだ。

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以下、ややショッキングな画像があるので注意!

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バンダネイラ博物館蔵「バンダにおける、伝統的指導者たち44人の虐殺」。1621年5月8日に行われた、処刑シーンを描いた近代絵画。処刑を担当している日本人傭兵が、まわしをつけた力士にしか見えないのが、異様にホラーな雰囲気を醸し出している。

 

 こうした傭兵たちの供給元は、浪人たちであった。戦国の世が終わり、徳川幕藩体制の元、多くの大名が取り潰しの目にあう。大量に溢れた浪人たちが、糧を求めて海外へ渡ったものと見られている。根来の元行人たちの中にも、そうした者たちがいたかもしれない。

 なお日本人と同じように、傭兵としての需要が高かった民族に「カフル」と呼ばれたアフリカのモザンビーク人がいる。モザンビークでは部族間の抗争が盛んで、日本と同じように人取りで捕まった奴隷がポルトガル人に売られていた。そういう関係で、戦士たちが多かったのかもしれない。ポルトガルの宣教師に日本に連れてこられ、信長の目に留まって側に仕えた元黒人奴隷「弥助」も、インド経由で来たモザンビーク出身の奴隷兵士であった。

 彼らカフルの戦闘能力は非常に高かったらしい。1606年にオランダはポルトガルからマラッカを奪わんと、11隻の艦隊を送り込んでいるが、失敗している。この時にオランダ軍を迎撃したポルトガル軍には日本人傭兵もいたようだが、主力はカフル、つまり黒人奴隷兵士だった。その勇猛な戦いぶりには攻撃側の指揮官である、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(先述したバンダの虐殺者)が感心しているほどだ。

 こうしたアフリカ人奴隷、或いは傭兵が、自分のために奴隷を購入することもあった。1631年の記録に、メキシコにおいてファン・ビスカイノというアフリカ人奴隷が、日本人奴隷ファン・アントンを解放した、という記録が残っている。解放に要した費用は100ペソであったそうだ。

 14~15世紀における、日本を含めたアジア・アフリカの人々の移動距離の長さと、遠い異国の地で逞しく生き抜く力には驚かされる。(続く)