根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑧ 倭寇vsオランダ ゼーランディア城攻防戦

 当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であった。しかし1661年4月30日、その息子・鄭成功は300隻の艦隊に1万1700人の兵員を乗せて、ゼーランディア城に攻め入ったのである。

 台湾総督コイエットの元に「鄭成功が台湾を狙っている」という情報が届いていないわけではなかったのだが、攻めてきたその数には仰天した。当時のオランダ方の記録には、「霧が晴れたのち、多くの船が北線尾港口にあるのが見えた。マストは大変多く、森のようであった」とある。

 当時この辺りで唯一、船を安全に駐留できる港であった台江内海(安平港)に入るためには、大砲を備えたゼーランディア城のある岬の突端を通るか、向かいの北線尾島にある鹿耳門溝(ろくじもんこう)という、非常に浅くて細い水路を通るしかなかった――はずだったのだが、この日はよりによって大潮の日だったのである。その日を狙って侵攻した鄭艦隊は、午前10時の満潮時に難なく鹿耳門溝を通過、台江内海に侵入し兵を一斉に上陸させた。まずはプロヴィンシアとゼーランディアの連絡線を遮断することに成功する。

 

台南赤嵌楼の展示図に、筆者が加筆したもの。沿岸流によって運ばれた砂礫が湾の入り口で細長く堆積し、入り口を塞いでいる。こうした地形を「砂州」と呼ぶ。砂州の隙間に形成された鹿耳門溝は、本来はボート程度しか通れないほど浅くて狭い水路であった。しかし鄭水軍のジャンクは喫水の浅い平底船であったから、普段よりも潮位が大きく変化する大潮を利用して、水路を突破することができた。

 

 翌5月1日、オランダ軍のペデル大尉率いる250人がゼーランディア城から出撃、北線尾島に逆上陸し、鄭軍の陣に対し攻撃を仕掛けている。勇敢だが、無謀な攻撃であった。どうも「しょせんは倭寇、大砲の音を聞いたら逃げ散るだろう」と、舐めきっていたようだ。これまで相対してきたような、ただの略奪集団ならそうであっただろうが、鄭軍は大国・清を相手に何年も戦ってきた歴戦の軍隊である。正面に50門の小型仏郎機(フランキ)砲を配備していた4000の兵に迎撃され、壁に投げつけられた生卵のごとく、攻撃部隊は粉砕される。部隊のおよそ半分近く、118名の被害を出しほうほうの体で撤退、先頭にいたペデル大尉もあえなく戦死してしまう。

 海上ではオランダ艦隊が善戦した。わずか3隻だけの小艦隊であったが、大砲を使って鄭軍の多くの船を沈めたのである。しかし多勢に無勢、鄭軍は30隻以上の船で囲んで応戦し、雨のように火矢を射かける。オランダ艦隊の新鋭戦艦・へクトール号は、甲板上で発生した火災により火薬庫が誘爆、沈没してしまった。残った2隻も命からがら逃げだして、鄭軍は陸海で大勝利をおさめたのである。

 

台南熱蘭遮城博物館蔵「ゼーランディア砦」より。南から北に伸びた砂州の上に建てられたこの城は、煉瓦造りの3層構造になった「内側の砦」と、それに付随した長方形の「外側の砦」とで構成されていた。城壁の四隅には大砲が置かれており、南西には望楼が建っていた。城の左に広がっている街並みは居住地区で、城との間には市場や処刑場があった。

 

 5月4日、支城であるプロヴィンシア城は降伏開城する。この時点で、まだ900人の兵士を擁していたゼーランディア城は、籠城戦に入った。オランダのアジアにおける拠点である、バタヴィアからの援軍を待つことにしたのである。7月30日、そのバタヴィアから10隻の船と750人の兵員を乗せた艦隊が到着する。港の外に姿を見せたこの援軍を見て、ゼーランディアのオランダ軍の士気は高まった。だがこの時は風が強かったために、艦隊の1隻が座礁、鄭軍に捕獲されてしまう。しかたなく一旦退避、9月16日に改めてオランダ艦隊による攻撃が開始された。

 鄭成功は迎撃のために艦隊を派遣、オランダ軍は短艇を下ろしてこれと激しい洋上戦闘が繰り広げられた。数に勝る鄭艦隊はオランダ艦隊を撃破、オランダ側はこの戦いで戦艦カウケル号が爆破炎上、ほか数隻が拿捕され、なんと1288人が死亡・捕虜となってしまう。一方、鄭軍の被害は150人ほどであったというから、前回以上の一方的な勝利であった。

 この戦いでオランダ軍の継戦能力は失われる。士気も落ち、ゼーランディア城からは逃亡して敵側に投降する人員が続出。鄭成功は翌62年1月25日にとどめの攻撃を仕掛けた。これが決め手となって、オランダ側から停戦交渉の申し入れが入り、2月にゼーランディア城は降伏開城した。これにより、オランダの38年間にわたる台湾統治は終わりをつげ、鄭成功支配下に入ったのである。

 オランダ側の記録によると、包囲網の最中のオランダ人捕虜に対する鄭軍の扱いは、相当過酷なものだったらしい。捕まった男性の多くは拷問され命を落とし、女子どもは奴隷にされている。正式な降伏が受け入れられた後は、多くのオランダ人は私物を持って退去することが許されたが、奴隷となった女性に関してはその限りではなかった、とある。この女性たちの悲劇は、海外で劇の主題にもなっているほどだ。

 こういう容赦ないところは、倭寇らしいといえば倭寇らしいが、オランダも立場が逆だったら、それ以上に酷いことをしたはずだから(バンダ島の虐殺を見よ)、お互い様のような気がする。そういう時代のそういう戦いだった、ということであろう。(続く)