根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑨ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)

 暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もいたのだろう。また日本から来襲した数よりも、現地で蜂起した数の方が多かったはずだ。

 既に大陸入りをしており、各地で越冬していた倭寇たちもいた。沙上では、正月早々から倭寇居留地を攻めてきた官軍と戦いこれに大勝、1000人余りの官兵を殺している。これらは日本から襲来してくる略奪船団と呼応する形で、3月には分散して各地で略奪行為を始めるのだ。

 日本からの船団は、五月雨式に沿岸部を襲う。4月11日、20を超える船が浙江の観海から上陸、慈谿・餘姚を攻めた。13日には別の倭寇3000人が、鎮江から揚州・儀眞の両岸を侵す。更に別の賊が上海・蘇州方面に侵攻するなど、各地に多大な被害を与えている。

 徐海が率いる本隊は、先に大陸に入っていたらしい陳東の軍と乍浦で合流している。各地を略奪した後、4月になって先の記事で紹介した、佐撃将軍・宗礼率いる900の私兵軍団と三里橋を巡って激しい戦闘に入っている。多大な犠牲を払いながらも最終的にはこれを撃破するのだが、徐海はこの戦いで負傷してしまうのだ。

 そしてこのタイミングで、徐海の元に胡宗憲からの使いが来るのである。怪我からくる病を得てしまい、気が弱くなっていた徐海に対し、胡宗憲は王直と同じように帰順を勧めてきたのだ。この時点で、王直はまだ降っていなかったが、「王直も帰順する方向で同意したぞ」と告げ(嘘ではなかった)、その動揺を誘う。同時にこの時点で別行動をしていた、彼の有力な部下である陳東と麻葉に対する猜疑心を煽った。彼らが「独断で帰順をはかっている」と告げたのである。実際には両名は帰順するつもりはなく、日本への帰国を望んでいたらしい。

 6月25日、陳東と麻葉率いる手勢が乍浦にいた徐海と再び合流する。だが徐海は既に、胡宗憲に降伏する腹積もりだったのである。まず麻葉が7月3日に官軍に捕まってしまう。そしてこの捕らえた麻葉に、胡宗憲は無理やり「徐海を殺して、一緒に帰順しよう」という陳東宛ての偽手紙を書かせ、それを徐海に見せる、という実に陰険な手を使うのだ。これを信じた徐海の手引きによって、14日に陳東が捕まった。

 

「抗倭図巻」より。3人の倭寇がお縄についている。張鑑によると、この3人は陳東・麻葉・そして徐海の息子の徐洪とのことだが・・・

 

 徐海にとって残った問題は、自ら日本で募集して、ここまで連れてきた残余の倭寇たちだ。ここに至って、もはや用済み――というよりは、はっきりと邪魔者になった、これら日本人らをどうすべきか。

 29日、徐海は「希望者は日本に帰す」と言って、乍浦の沖合に帰国のための官船を何隻か用意させる。だがこれが罠であったのだ。日本に帰らんと船を目指して沖合に向かった倭寇を、乍浦城から出撃した官軍が追う。干潟に足を取られた倭寇の殆どが討ち取られ、多数が溺れ死んだという。

 この倭寇は新五郎が率いていたらしいから、大隅勢を主とする集団だったのだろう。新五郎自身はその場から逃れることに成功し、何とか日本に帰ろうとするも、8月4日に金塘の洋上で捕まってしまうのだ。その後、あえなく処刑されてしまったものと思われる。(続く)

 

「抗倭図巻」より。舟の上で4人の倭寇が縛られている。張鑑によると、この中に大隅の新五郎がいるとのこと。逆エビ反りで縛られているのが、そうであろうか?とすると、残りの3人も大隅勢の日本人かもしれない。