根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑦ 海雄・王直の死

 さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。

 瀝港(れきこう)が陥落したのが1553年3月である。逃げ出した王直は、そのまますぐに日本に向かっている。ところが彼の手下の暴れん坊の一人、蕭顯(しょうけん)という親分率いる倭寇の一団は、日本に行かずにそのまま江南各地を襲い始めたらしい。4月から始まったこの略奪が、本格的な「嘉靖の大倭寇」の口火をきることになったわけだが、これは果たして王直の指示によるものなのだろうか?

 王直の下には他にも多くの親分たちがいて、それぞれが各々のグループ、つまり一家を率いていた。それらの頭目とされていた王直だが、絶対的な権力があったわけではなく、繋がりも緩い連合体のようなものであったと思われる。事実、最も勢力のあった徐海などは、王直と仲たがいした結果、袂を分かっている。こうした略奪行は、かつて彼の指揮下にあった元部下たちが勝手に行ったことで、王直の関知するところではなかったのかもしれない。とはいえ明にしてみれば、あくまでも倭寇の大元締めは王直である、という認識であった。

 いずれにせよ、これら神出鬼没の倭寇たちへの対抗策として、明は沿海部に海防のための城を築いて兵を駐屯させたり、烽火台を整備するなどしたようだが、うまくいかなかったようだ。こうした如何にも場当たり的な、水際対策に終始せざるを得なかったのは理由があった。

 かつて双嶼(そうしょ)を陥落させた浙江省順撫の朱紈(しゅがん)は、密貿易によって儲けていた郷紳たちによる弾劾運動によって失脚、自害してしまっていた。瀝港を陥落させた王抒も、倭寇被害が悪化した責任を取らされるところであったが、嘉靖帝に気に入られていたため、なんとか対モンゴルの北方防衛方面への異動で済んでいる。(モンゴルでも失敗して、結局は処刑されてしまうのだが。)

 そしてその後任の海防責任者も、同じようにすぐに弾劾されては失脚する、といった事態が続くのだ。1年持てば良い方で、わずか34日間でいなくなってしまった者もいる始末。中央における派閥政治のあおりを食って、このような体たらくになっているのだが、これでは統一した指揮系統など取れようもない。

 そんな中、1556年に浙江省順撫として胡宗憲が就任する。後の世に「権術多く、功明を喜ぶ」と評されたほど、狷介な人物である。

 

明代に描かれた「抗倭図巻」(作者不詳)より。清代の文人、張鑑がこの図巻について詳細な解題を行っている。それによると、赤い服の右横にいる鎧姿の人物が胡宗憲。功のあった前任者の張経を讒言で処刑に追いやり、浙江省順撫の地位に就いた男である。

 

 この新しい浙江省順撫・胡宗憲が採用した策は、宣撫と離間であった。その対象として大物・王直をターゲットにしたのは、当然のことであろう。配下を日本に送り「罪を許すから帰ってこい」と望郷の念に訴えた。その際には「今後は海禁を緩めて、貿易を許すぞ」など、利を以て誘うことも忘れない。

 この「寛海禁、許東夷市」という一文が、王直の心に響いたのである。彼の夢は日本との貿易を公のものとして認めさせ、船団を率いて大海原を舞台に思う存分、駆け巡ることだったからだ。すっかりその気になった王直は、1557年4月に五島から帰国の途につく。なんだかんだ齟齬があって、胡宗憲に降伏したのは11月になってからなのだが、明朝の延議ではこの大海賊・王直の処遇を巡って、意見が真っ二つに割れたのである。

 結局は「倭寇は絶対に殺すマン」たちの意見が通って、王直の処刑が決定してしまう。胡宗憲も当初は助命しようと動いていたようだが、「やつは王直から大金を貰っている」という、極めて信憑性の高い噂を立てられたので、見捨てることにした。先に出した上奏文を慌てて撤回、逆にその処刑を強弁に主張する文を上奏している。

 こうして1559年12月25日、杭州門外で王直は処刑されてしまう。罪状は国家反逆罪。東アジアの海を縦横無尽に駆け抜けた、一代の海雄の死であった。その首は寧波海辺の定海関にさらされ、妻子は奴隷として功臣に与えられた、とある。

 死の直前に、彼が残した上奏文が残っている。そこには「もし陛下が自分を信じてくださるならば、日本と貿易を行うことを許していただきたい。日本各地の領主たちには自分が言い含め、略奪など二度と勝手な真似をさせませんから」とある。最後までブレることなく、海禁の緩和を主張していた彼は、やはり根っからの貿易商人であったのだ。

 「海禁を緩める」旨を王直に約束した胡宗憲もまた、きちんとその旨を上奏している。これは彼の出世にもつながる大事なことで、密貿易に関わっていた郷紳らの支持を得る必要があったためだろう。また朱紈や王抒の時と違って、この時点で密貿易船団は全て略奪船団に姿を変えていたから、倭寇を殲滅させても郷紳らからクレームがくる心配はなかった。そういう意味でも、彼は運が良かったといえる――少なくとも、今しばらくの間は。(続く)