根来戦記の世界

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晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その① 海賊王を目指した林鳳

 後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」とでも名付けるべきであろうか。特徴としては、構成分子の国際的色彩がより豊かになり、活動地域が中国沿岸から、台湾・フィリピン・タイなど東南アジアを含む南洋全体に広がったことだ。

 この晩期の倭寇として、まず有名な人物に林鳳(スペイン側の記録ではリマホン)がいる。潮州出身で祖父の代から倭寇であったというから、筋金入りの海賊大将である。1565年あたりから活動をはじめ、最盛期には4000人の部下がいたというから、相当なものだ。

 1574年11月。この時、林鳳は男どもだけではなく、多くの女子どもも含めた、さながら移民船団のような艦隊を率いていた。中国沿岸で暴れすぎた彼は、明の官憲に追われていたのである。向かった先は中国沿岸より警備の緩い東南アジア方面。主にタイ・台湾・フィリピン周辺の島々である。しかし豊かな中国本土と違って、島々との密貿易や略奪行には旨味は少ない。かといって追われているから中国沿岸には戻れない。でも配下の者どもは食わせにゃいかんし――ということで、いっそ林鳳はフィリピン全域を占領して、海賊王になることを決心するのだ。

 

「海賊王に、俺はなる!」スペインの児童書から画像転載。時代考証や服装など、随分といい加減な感じの林鳳。頭に被っている謎の物体は何なのか。足下で倒れているのはマニラ総督マルティン・デ・ゴイティ。

 

 1574年時のフィリピン・マニラにはスペイン人が町を築き、周辺の海域を支配していた。この町を奪わんと、林鳳率いる倭寇が侵攻。このときスペイン人の守備隊の多くは60歳を過ぎた退役軍人で、現地のフィリピン人を加えた混成部隊だったという。

 11月30日と12月2日の2日間に渡って、林鳳はマニラを攻撃する。倭寇集団は市の防衛線を突破、マニラ総督マルティン・デ・ゴイティを殺害し町を略奪。そして町の中に最後に残った砦の奪取を巡って、激しい戦いが繰り広げられたのである。立て籠もったスペイン側には、もう後がない。倭寇に捕まったら皆殺しが相場、運が良くて奴隷だから、必死で防戦した。そして防御陣が破られそうになったその瞬間、思い切って逆に討って出たスペイン側の反撃により、倭寇集団の戦線は崩壊。林鳳は敗走する。

 その後、林鳳はマニラから北へ200kmほど離れたパンガシナンの河口に砦を築くが、1575年3月22日、彼を追ってきた明の軍隊とスペインの連合軍に包囲されてしまう。4か月という長い間、林鳳は包囲に耐え抜く。そして最終的には、密かに掘り進めていた水路を通じて、逃れることに成功するのだ。一説によると、この逃走劇に使用されたボートは37隻もあったらしいので、それなりの数が逃れたものと推測できる。

 その後、林鳳は安住の地を求め、南シナ海を彷徨う。散発的に潮・広州沿岸を襲うなどをしていたが、明の追撃は厳しいものだったようだ。1576年にはタイのアユタヤ王朝を訪れ、これまでに貯めた財宝と引き換えに保護を求めるも、拒否されている。行き場のなくなった彼は、いっそまだ見ぬ新天地を求め、大海原へと漕ぎ出していく。その後、彼の船団を見たものはいない・・・

 この倭寇集団の戦闘部隊の中核は日本人だったらしく、マニラ攻略の際に一連の攻撃の指揮を執っていたのも彼の副官であった「シオコ」という日本人だった、とスペイン側の記録にある。「庄吾」、或いは「新五」とでもいう名だったのだろうか。彼らは刀と共に鉄砲も使用していて、スペイン方の指揮官の一人、サンチョ・オルティス少尉を狙撃して斃している。ただその直後に、シオコも撃たれて死亡したようだ。あともう少しのところで攻撃が失敗してしまったのも、指揮を執っていた彼が死んでしまったからかもしれない。

 それにしても、もしこの攻撃が成功して林鳳がマニラを奪取していたら、フィリピンのその後の歴史は変わっていただろう。相当、際どい戦いだったので、その可能性は十分にあったのだ。もしかしたら、倭寇による国が建国されていたかもしれない。(続く)