根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)

 これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として、徐海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子分格であった陳東との諍いの話が残っている――以下に紹介しよう。

 陳東の元に、攫ってきた一人の女性がいた。一緒に暮らしているうちに情が移った陳東は、彼女を故郷に帰してやろうとしたのだが、それを聞いた徐海が「帰すくらいなら、俺に寄こせよ」と笑いながら言ったので、激高した陳東が剣の柄に手をかけた、というものだ。

 他にも瀝港に来てすぐの頃、新参者にも関わらず密貿易をしつつ、その裏で略奪しまくっていたのが王直にバレて、「まさか儂のすぐ足元に泥棒がいたとは、思わなんだ!」と罵られている。(この時期、王直は官憲とうまくやっていたから、こういう行為には相当気を使っていた。)逆ギレした徐海はこの時、王直を殺そうとしたというから、碌な逸話が残っていない。

 そんな彼だが、1554年の春ごろから強大な勢力を持つに至る。元々は叔父が倭寇の親玉だったので、その後を継ぐ形で船団の長となったわけだが、タイミングが良かったのだろう、幾つかの略奪行を成功させ、一気にその勢力を伸長させたのである。ためらうことなく容赦ない略奪をする、その酷薄な性格が、一獲千金を夢見る多くのならず者どもを引き寄せたのだ。

 彼は幹部に「三大王・八大王」などの称号を与えて(如何にも悪役っぽい!)組織化したり、兵に紅衣を着させ騎乗させるなど、己の軍団を軍隊方式に編成したから、なかなかの強さを誇っていた。そして遂には、自らを「平海大将軍」と称したのである。

 調子に…違った、勢いにのった平海大将軍・徐海は1556年3月から4月にかけて、空前絶後の規模の略奪船団を送り出す。艦隊の数は併せて1000余隻、人員はなんと5万人に達したと言われている。文禄の役における日本水軍の規模が1万人ほどだから、流石に誇張された数字だとは思うが、話半分にしても凄まじい。かつて明が威信にかけてインド洋に送り込んだ「鄭和の大艦隊」にも匹敵する数字で、倭寇船団としては史上最大級であったことは間違いない。

 この略奪行には5つの日本人グループが参加しており、大隅勢を新五郎、種子島勢を助左衛門、薩摩勢を夥長掃部(ほうちょうかもん)、日向勢を彦太郎、そして和泉勢を細屋という者が率いていた、とある。

 この細屋とやらが率いていた和泉勢には、根来行人ないしは、その氏子たちが数多く参加していたのではないだろうか。和泉、特に泉南地域はこの時期、完全に根来寺の勢力圏内にあり、子院の本拠地が数多く存在していた。

 

根来寺の勢力圏の成り立ちについては、上記の記事を参照。

 

 南海航路に親しんでいた根来行人らが、この和泉勢の主力だったとしてもおかしくない。堺辺りを出入りしていた密貿易商人の細屋とやらが、声をかけて略奪行の人を集めた、というところだろう。

 

倭寇図巻」より。鉄砲を持った倭寇。この「倭寇図巻」は今回紹介している徐海の略奪行を、モチーフとして一部取り入れている可能性がある。当時、鉄砲はまだメジャーな武器ではなかった。相応するモデルを当てはめるとすると、細屋が率いていた和泉衆、つまり根来の行人ということになるかもしれない。

 

 だが、好事魔多し――意気揚々と船出をしたこの艦隊の主力は、いきなり嵐に遭ってしまい、出鼻をくじかれてしまうのだ。その多くは日本に引き返してしまい、残りもバラバラになって中国沿岸に辿り着いた、とある。その行く末を、暗示させるスタートであった。(続く)