根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来寺・新義真言宗について

強大な武力を誇った根来寺。それを支えた学問上の教義とは?

根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

前記事で紹介したように、紀州・根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との…

根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

覚鑁派の本流であった大伝法院が高野山から退去し、根来の地に合流したことによって、ようやく本格的な根来寺の興隆がはじまった。軌を一にして、大伝法院伽藍群の建設が本格的にスタートする。金堂大伝法院・鐘楼堂・大塔・阿弥陀仏堂・不動堂など全ての堂…

根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する…

根来寺・新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、…

根来寺・新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自…

根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空…

根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは…

根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿…

根来寺・新義真言宗とは~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないの…