根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

 高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。

 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺の攻撃により、大伝法院が火災で焼失するという事件も起こっている。

 さて覚鑁の死後100年ほどが過ぎた頃、ひとりの僧が頭角を現してくる。のち、根来中興の祖と称される、頼瑜(らいゆ)である。1226年に根来近辺の山崎村の豪家に生まれた彼は、幼少期より才あって、大伝法院をはじめ、東大寺興福寺仁和寺醍醐寺などで修業を積んだ。当時の優秀な学僧は、宗派を横断して学ぶのが常であったから、頼瑜も南都六宗を含む八宗を学ぶことで幅広い見識を養ったのである。

 そして、その学識の高さで1286年40歳の時に大伝法院の学頭(座主ではない。先に紹介したように、座主の座は高貴な出自である院家出身の僧らに占められていた)に就任するのである。

 頼瑜は覚鑁のように、盛んに伝法会を行っている。彼は伝法会を効率的に進行させるために、事相・教相の体系化を進めた。具体的には、分かりやすくテキスト化したのである。伝法会が行われるたびに、テキストの注釈は増え、改訂が行われていった。また伝法会の際には、修行僧が「堅義(りゅうぎ)」というテストを受けるのが常なのだが、このテストの際に使用される問題集まで作成したのである。

 結果、それが根来真言の教学の発展につながった。生涯で450巻、という膨大な量のテキストを残したことにより、これらが多くの僧の手によって写書されたのだ。高野や根来から遠く離れた地方、特に東国においてこれらのテキストが多用されたことにより、覚鑁派の教学が全国に広がっていくことになったのである。

 ――さて頼瑜が学頭に就任したのと同じ年、大伝法院に大湯屋建設の動きが持ち上がる。大湯屋とは要するに風呂の施設のことなのだが、山上にあがる際に身を清める施設として必須のものであり、それ故に自治のシンボルともいえるものなのである。

 そもそも1242年の火災で失われていた、大伝法院の大湯屋を再建するという話なのだが、問題となったのはその大きさであった。どうも金剛峯寺の大湯屋よりも遥かに大きな大湯屋を建設する、という話だったようで、これは金剛峯寺にとっては看過できない問題であった。またもや合戦のごとき騒動があり、多くの人が斃れた後、大伝法院勢は遂に高野下山を決断する。1288年に発生したこの「大湯屋騒動」を契機に、大伝法院のすべての勢力は根来へと移転することになるのである――

 というのが、長きに渡って伝えられてきた「大湯屋騒動」なのだが、この騒動が本当にあったことなのか、どうも怪しいらしい。そもそもこれは400年以上経った1693年になって、金剛峯寺の立場で記された「高野春秋」に載っている話で、該当する話は当時の文献には見当たらず、考古学的調査でもこの時期に山上で火災があった痕跡が発見できていない。実際、1288年以降も高野山に大伝法院が残っていた形跡があるのだ。

 実際に大伝法院が本拠を根来に移す動きが始まったのは、言い伝えられている「大湯屋騒動」より、遅れること50年ほど後のことのようだ。理由としてどうも大湯屋は関係ないようで、本当は鎮守社天野社や荘園の支配権をめぐる、利権の喪失が原因のようだ。

 これまで全国に広大な荘園を保持していた寺社勢力であったが、時代が下るにつれ院や公家の弱体化が進み、南北朝期には特に遠隔地の荘園の大半が武士たちに奪われることになる。大伝法院のライバル・金剛峯寺もその限りではなく、代わりに近辺の荘園の支配強化を進めることになるのだ。

 この頃、大伝法院は近辺に多くの荘園を持っていた。うち金剛峯寺の荘園に隣接していたのは、鳥羽上皇覚鑁に寄進した「相賀荘」と、覚鑁が損害弁済のため取得した「渋田荘」である。ところが1333年の後醍醐天皇の勅裁によって、「紀ノ川より南」の地域がことごとく高野山金剛峯寺に帰属するものと認定されてしまったのである。これを後醍醐天皇による「元弘勅裁」と呼ぶが、この勅裁により大伝法院は両荘の大部分の支配権を失ってしまう。

 大伝法院には、このままでは金剛峯寺側の経済的な侵食に負けてしまう、という認識があったようだ。例えば高野山上において、最盛期の大伝法院は13の堂宇で構成されていたのだが、1242年の火災でその殆どが焼失してしまっている。その後、再建が行われてはいるが、全面的な堂宇の再建には至っていない。どうも経済的には、あまりうまくいっていなかったようなのである。

 それならば覚鑁の避難以来、それなりに発展を続けてきた根来の地に本拠を移転して、仕切り直ししよう――というのが、移転の真相のようである。

 もうひとつの理由として、中世権門寺院の更なる体質変化が挙げられる。要するに本寺だろうが末寺だろうが、この頃の有力な寺社の座主はほぼ院家出身の権力のある僧で占められており、また複数の座主を兼任することが常態化していた。そういう意味では、本末の区別はそこまで重要ではなくなってきていた。金剛峯寺も大伝法院も上位機関である本寺の影響から、徐々に抜け出しつつあったのである。

 この辺りの経緯は複雑なので詳細は省くが、大伝法院にしてみれば根来に移転することで、しがらみのある関係性をリセットし、二重の意味で己らが拠って立つ地を造ろうとした、ということになる。

 そんなわけで大伝法院の高野から根来の地への移転は、時間をかけて比較的平穏に進められた、というのが真相のようだ。おそらくは70~80年ほどかけて行われたものらしく、根来の地に完全に移ったといえるのは15世紀初頭になってからと見られている。

 こうして紀州の地に、晴れて根来寺が成立したのであった。(続く)

 

紀州根来寺にかつて存在した「大湯屋施設」。湯屋(温室とも)は聖域には必須の施設である。日本の仏教は「神仏習合」の影響を受け、穢れを忌避する傾向があった。俗世から離れた修行の場に入る際には、斎戒沐浴して身を清める必要があったのである。なので大きな寺院には、こうした湯屋が必ず設置されていた(なお中世の湯屋は、湯舟はなくて全て蒸し風呂、つまり湿式サウナである)。移転後の紀州根来寺にもこうした温浴施設があったことが、発掘調査で判明している。左は武内雅人氏による、根来寺境内東側にあった温浴施設の敷地再現図である。面積は南北25m・東西に60mにも及ぶ広大な敷地であった。調査の結果、ここには蒸し小屋である湯屋が東西にひとつずつ(図では温室とある)、その他に井戸が3つあった。湯屋が2つあったのは、学侶僧用と行人僧用で分けられていたのかもしれない。なお図の中央には「温浴用施設」とあるが、ブログ主はここは山の清水をかけ流した石造りの泉ではないか?と思っている。現代のサウナーのように火照った体を冷水浴で引き締めて、その後は脱力して「ととっていた」に違いない!・・・そうであって欲しい。右は鳴海祥博氏による、湯屋の復元イメージ。湯屋の右奥に更に個室があるが、ここが湿式サウナの浴室になる。右下にお湯を焚く釜戸と繋がっており、ここから蒸気をサウナに送り込む仕組みである。或いはヨモギなどの薬草も一緒に蒸して、香りのついた蒸気を送り込んでいたかもしれない。それにしても薪で焚いているわけだから、火加減が難しそうだ。(それぞれ「中世都市根来寺紀州惣国」「根来寺文化研究所紀要第4号」より抜粋)