根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

 前記事で紹介したように、紀州根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との間で派閥争いが表面化してくるのだ。

 客僧はあくまでもゲストであって、根来寺においては重要な職に就くことはできなかった。いずれは地元に帰っていく者たちが多く、その数も少なかったから、当初はそれでもよかったのだ。だが時代が下るにつれ、客僧の数が増大してくる。日本全国から集まってきた客僧には、また極めて優秀な者たちが多かったのだ。

 根来の座主は、京にいる院家出身の僧・醍醐寺三法院門跡が就くことが続いており、彼らはめったに紀州まで足を延ばすことはしなかった。そこで根来における学侶僧の実質的なリーダーは、学問面でのトップということになる。かつて頼瑜が務めていた「学頭」という役職がそれである。しかしいつの頃か、客僧方と常住僧方でそれぞれが学頭を擁立するようになっていた。これは客僧方の力が、以前より徐々に勢力を強めてきたことを意味する。

 そして1400年代後半からは、学頭より更に上の、「能化」という役職が成立するようになるのだ。

 この初代能化の座に就いたのは、信州・諏訪の出身である道瑜である。彼は客僧方であったにも関わらず、学問面で極めて優れていたため、常住方の寺院である十輪院の住持に抜擢され、先達30人をゴボウ抜きして学頭の座に就いた天才である。その功を讃え、彼を「能化」と呼び始めたのが始まりで、以降、根来においては学問面でのトップを「能化」と呼ぶようになったのである。

 そしてこの「能化」職を巡って、客僧と常住僧が争うようになるのだ。初代能化の道瑜であるが、元は客僧であったにも関わらず、常住僧に鞍替えした裏切り者ということで、どうも客僧方からは評判がよろしくなかったようだ。そこでこの時は、客僧方でも新たに能化を出すことにしたようである。

 この時の「二人能化」の時代は、そう長くは続かなかったようだ。だがこの後しばらくたってからのことになるが、常住僧に妙音院玄誉という男が能化職に就いた際には、客僧方はこれに対抗して頼空という人物を擁立したと伝わっている。この時は実際に、山内において乱闘に近い小競り合いが見られたようだ。幾ばくかの血が流れた後で、今後はこうした争いを避けるため、能化職は「客僧方・常住僧方で交代して務める」ことが制度化されたようである。

 ところがよりによって、1584年に常住僧方の能化であった妙音院頼玄は、同じ常住僧方である妙音院専誉に能化職を譲ってしまったのである。これに対抗して、客僧方からは智積院玄宥を能化としたことで、再び「二人能化」が出現する事態となったのである。

 これにより山内を二分する紛争に発展し、山内の仏事も絶えるほどであった、と伝わっている。それにしてもタイミングが最悪であった。1584年といえば、秀吉vs家康の「小牧の役」が発生した年であり、根来行人方が秀吉に向かって正式に戦いを挑んだ年であったのだ。

 

「小牧の役」に始まる、行人方子院の大阪侵攻については、こちらの記事を参照。秀吉の中央集権構想においては、中世・根来寺のような存在は、決して相入れないものであった。

 

 詳しくは上記の記事に始まるシリーズを読んでいただきたいのだが、翌1585年には秀吉の紀州侵攻が始まる。これに抗しきれず、根来寺の伽藍の殆どは炎上、中世根来寺は滅亡してしまうのである。これは構造的なもので、避けようのない道だったのかもしれない。

 しかし開戦前にその殆どが主戦派であった、行人方を止めることができたのは学侶僧方だけだったはずで、その行く末を決定する肝心なときに、学侶僧らの間で深刻な派閥争いが起こっていたことは、根来寺にとってプラスになることではなかったのである。

 10年ほど根来山内に住み、兵火直前に高野山に難を逃れた、日誉という僧がいる。彼は半世紀ほど後の1636年に「根来破滅因縁」という書を著すのだが、「根来寺の破滅の因は寺自体にあった」と記している。

 彼によると、一つの因は学侶僧の能化職をめぐる対立で、もう一つの因は行人僧の武力による悪行が度重なって生じた、とある。この二つが因となって、院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招いたのだ、と明記しているのだ。

 

根来寺最後の「二人能化」のうち、客僧方・智積院の住職であった玄宥僧正。根来滅亡の難を高野に逃れ、豊臣秀吉が亡くなった1598年に、京都東山にて智積院を再興させた。以降、こちらを「新義真言宗・智山派」と呼ぶ。なお第3代目の智積院能化には、先に紹介した「根来破滅因縁」を著した日誉が就任している。豊島区にある大正大学は、四宗五派の宗派が集った仏教集合大学であるが、最も古い源流がこの智積院ということになっている。

 

「二人能化」のうち、常住僧方の能化であったのは、妙音院の住持・専誉僧正である。彼もまた兵火を逃れ、のち秀長に招かれ大和・長谷寺の住持となった。こちらを「新義真言宗豊山派」と呼ぶ。江戸期に入って、紀州根来寺豊山派の寺として再興を許されるようになるのだ。なお明治に入り、仏教各宗派は政府の指導の下、統合・再編成が成されることになる。根来の地は新義真言宗の根本道場とされ、智山派と豊山派が交代で大伝法院の座主を勤めるようになるのだ。第二次大戦後、宗教法人法の改正により、根来寺を総本山とする新義真言宗が創設され、現在に至っている。

 

 中世が終わり、近世となる。覚鑁の興した根来寺新義真言宗は上記の通り、2つの流れとなり再興するわけだが、両寺の再興した姿は中世以来の権門寺院としてではなく、幕藩体制の枠の中で発展していくという、近世以降の宗教権門としての姿であった。

 ――以上が、根来寺新義真言宗に関する概略となる。教義に関することでは深いところにまで踏み込めておらず、また個人的な推測も一部含まれているので、プロの方々から見ればとんでもないことを書いているな、と思われる個所もあるかもしれない。致命的な事実誤認があれば、お手数だがコメント欄でご教示いただければ幸甚である。(終わり)

 

このシリーズの主な参考文献

・日本仏教史 思想史としてのアプローチ/末木文美士 著/新潮文庫

・浄土思想/岩田文昭 著/中公新書

・ビジュアル仏教の世界 浄土の世界/世界文化社

・鎌倉仏教/平岡聡 著/角川選書

浄土真宗とは何か/小川聡子 著/中公新書

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

・中世都市根来寺紀州惣国/海津一朗 編/同成社 中世史選書13

・久遠の祈り 紀州国神々の考古学②/菅原正明 著/清文堂

根来寺文化研究所紀要 第一号~第六号/根来寺文化研

根来寺を解く/中川委紀子 著/朝日選書

・歴史の中の根来寺 教学継承と聖俗連鎖の場/山岸常人 編/勉誠出版

・その他、各種学術論文を多数、参考にした。