根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

 このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉新仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただければ・・・

 さて鎌倉新仏教は、既存の仏教に対するアンチテーゼとして生まれた宗派である。平安末期よりまず武士が、遅れて庶民らが台頭してくるわけだが、既存の寺社勢力は広大な荘園を抱え、皇族や有力貴族らの子弟が座主に就任する貴族仏教であったため、必然的にその教えも体制を補強するものとして利用されていた。新興勢力であった、彼ら武士や庶民らを対象とするものではなかったのである。

 そこでこうした新興勢力のニーズを満たすために、「大衆を救う」新しい教えである鎌倉新仏教が生まれた、というのが史学界における定説である。

 日本におけるこうした動きを、西欧でいうところのカソリックプロテスタント宗教改革と、同じ構図として比することもできる。確かに「神の意思」と「人の自由意志」をどう捉えるか?という点など、教義上においては幾つかの共通点が見られる。(これに関しては別の記事で取り上げる。)特に戦後はそういう見解が強かった。だが、そもそも西欧の宗教改革は中世の終わりに発生し、時代を近世へ導く要因のひとつとなった運動である。

 一方、日本の鎌倉新仏教の発生は中世初頭である。時代的にはズレているのである。それでも昔は西欧と同じように「古代という時代を終わらせた、宗教改革」として受け止める向きが多かったのである。

 つまり中世に入り、古代においては体制側であった既存の旧仏教勢力は勢いを失い、代わりに新興勢力である鎌倉新仏教がメインストリームの宗教となった、と捉える考え方である。しかし本当にそうであろうか?これ以降、鎌倉新仏教が爆発的に流行したと思われがちであったが、実情を見るとそこまでではないのである。

 少なくとも中世初期における鎌倉新仏教は、あくまでも異端扱いされており、主流ではなかった。南都や叡山・高野山などの旧仏教は、権門寺院として引き続き強力な勢力を保ち、体制側としての役割を長く果たし続けたのである。1975年に黒田俊雄氏が唱えたこの「顕密体制論」は、大枠として今も広く支持を集めている。(この論をさらに拡大発展させたものとして「権門体制論」があるが、このシリーズではそこまで立ち入らない。)

 本当の意味で、鎌倉新仏教が「庶民の仏教」として大きな力を持つのは、室町後期を待たなければいけない。とはいえ平安末期に鎌倉新仏教という、新しい教えの萌芽が見られたのは間違いないのである。

 さて当たり前だが、鎌倉新仏教は突然に出現したものではない。社会構造の変化にリンクする形で、古くから続く教えが変遷した末に辿り着いたものであるわけだ。これについては深遠な思想体系を対象にした、先達による壮大な研究史がある。ブログ主の知識と力量では、それら全てを消化し紹介することは不可能であるのだが、迷える凡夫なりに理解したことを、自分の言葉で分かりやすく紹介してみたいと思う。

 鎌倉新仏教の教義が生まれるに至るまで、重要なピースは3つある、というのがブログ主の個人的見解である。まずは教義の基本である「浄土思想」、それにリンクする形で発展した「称名念仏」、そして「本覚思想」である。

 「浄土思想」と「称名念仏」は互いに密接に絡み合っており、ひとつのものとして取り上げたほうがいいかもしれない。またこの2つは既に過去の記事でも解説しているが、情報を追加捕捉する形でもう一度解説してみようと思う。

 奈良~平安初期までの「念仏」には、「称名」と「観想」の2種類があった。称名は現代の我々が想像する「南無阿弥陀仏」とか「何妙法蓮華経」とか色々あるが、いわゆる口に出して唱える念仏である。一方、観想というのは口で唱えず、頭の中だけで仏を念ずる行為である。古代においては、この観想念仏こそが主流であったのだ。

 日本に浄土思想と共に称名念仏を紹介したのは、天台の僧・円仁であることも過去に触れた。円仁は唐の五台山で行われていた「五会(ごえ)念仏」の儀式を日本に導入したのである。これは「浄土への往生」を目的とする儀式なのだが、独特の節回しで称名念仏するというもので、非常に音楽性が高かった。以降、叡山においては「不断念仏」という名で年中行事として行われることになる。こうして浄土思想の流行と共に、称名念仏が広がっていく。10世紀頃には、叡山において称名念仏はかなりポピュラーなものになっていったようだ。

 しかし、そもそも念仏する目的とは何であろうか?浄土思想は、死後に浄土に往くことを目的とする教えである。死後、安らかに浄土に往く為には、臨終の際に観想念仏する、つまり浄土をイメージしつつ往くのが重要なのである。しかし死の寸前に心穏やかな境地に至るのは難しい。病による痛みで意識が朦朧とし、そうした観想ができない人もいるだろう。そこで心をそうした状態に導くために、称名念仏するのである。

 なおこの考え方によると、意識がはっきりしたうちに往生するのがいい、ということになる。極端な話、後世には「自害往生」する者が現れるようになるのだ。往生を確実にするために、老いて健康が悪化する前に自害してしまうのである。鎌倉期の御家人・津戸三郎為守が有名で、彼は齢80にして見事切腹して往生を遂げたのであった。

 また同じく鎌倉期の「沙石集」という仏教説話には、入水して往生を遂げんとする僧の話が載っている。彼は念仏を唱えながら湖に飛び込むのだが、脇に縄を抱えているのだ。これはなぜかというと、入水したはいいが命が惜しくなり生への執着が沸くと、往生が失敗してしまうので、もしそういう気持ちが起きたらやり直すために縄を持つのである。

 案の定、水の中から綱が引かれたので、僧は引き上げられた。本人曰く「苦しくなって妄念が沸いてしまった。これでは往生できないと思ったので、今回はやめた。」そこで数日して再チャレンジしたが、やはり失敗してしまうのだ。こういうことが何回か続いたので、いい加減縄を持つ人も「またかよ」と思っていたそうな。ところが何度目かのチャレンジの際、あれ?一向に綱が引かれないではないか。上がってこないぞ。もしや・・・そう!無事に成功したのだ。途端に空に音楽が聞こえ、水面に紫雲がたなびいたので、人々は涙を流して喜んだ、とある――まるで落語のような話だが、美談のつもりで書いているのである。

 話がそれてしまった――称名念仏に話を戻すと、つまりこの時点では称名はあくまでも観想に導く手段としての使われ方なのである。浄土思想の教学を発展させたのは横川の僧・源信であるが、彼は「往生要集」という「臨終の際に、どうすれば浄土へ逝けるか」という具体的なテキストを著している。その基本論調は「観想ができない人は、仕方がないので称名すべし」というものであった。(続く)

 

補陀洛寺所蔵「那智参詣曼陀羅」の一部を拡大したもの。補陀落渡海とは、西方にある浄土を目指し、二度と帰らぬ渡海に挑む行為である。僧が船に乗り込むと、屋形の外から釘を打ち付けた後、四方に鳥居を組み、間には卒塔婆を以て忌垣を設けられた。また沈みやすくするように穴を開けることもあったという。つまり本気で物理的に浄土に往ける、と思っていたわけではなく、これも一種の「自害往生」だといえる。確認できるだけで56件の補陀落渡海が行われているが、記録から漏れたケースもあると思われるから、実数はもっと多いだろう。画像にある、先頭を走る船が補陀落船である。この曼陀羅図の所蔵先である補陀落山寺の住持は、死期に臨むと舟に乗り「補陀落渡り」するのが通例であったという。ところが16世紀末ごろ、補陀落山の住職だった金光坊という僧は、生きながら入水するのを拒んだのである。そこで役人は金光坊を無理やり「補陀落渡り」させ、海中に沈めたと伝わっている。「流石にそれはちょっと・・」という声があったのだろう、以降、存命のまま入水することは行われなくなり、住職が死亡した後に儀式を行う、いわば水葬のような形に落ち着いたという。それでも自ら志願して補陀落渡海する者はいたのである。最古の事例は紀伊国の熊野において868年11月3日に行われたもので、慶龍上人が渡海している。驚くべきことに明治になっても行われている。1909年に高知県足摺岬金剛福寺の天俊上人が行ったものがそれで、これが最後の補陀落渡海となった。さらに驚くべきことに、補陀落渡海を行ったが、生きて琉球までたどり着いた例が、複数(!)あったことが分かっている。うちひとりは日秀という僧で、彼は1520~40年までのどこかで、熊野那智から補陀落船に乗って琉球に漂着した。彼は那覇で廃れていた護国寺を再興したのち薩摩に渡り、幾つかの寺を開基し、そこで一生を終えている。

 

上記の金光坊を主人公とした作品を含む、短編集。「補陀落寺の住持は、補陀落渡海をするもの――」。周囲からの、そんな強烈な同調圧力にさらされる金光坊の、死に向かう葛藤を描いた作品。同じ境遇になったとき、自分なら何を考え、どう行動するだろうか。

 

こちらはうって変わって、「補陀落渡海」を伝奇ホラーものとして取り上げた作品を収録した短編漫画集。妖怪ハンターというシリーズものであるが、すべて独立した話なので単体でも楽しめる。作中にある「帰還」がそれである。江戸時代に補陀落渡海に挑んだ僧が、出航直前に一目美しい少女を見てしまう。その妄執故に成仏できず、僧の乗った補陀落船は今も海を彷徨うのだ。怪奇現象を目にした僧が、最後に呟く一言が何とも効いている。