根来戦記の世界

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室町期の仏教について~その⑦ 曹洞宗が行った巨大イベント「千人湖会」

 五山に比べると曹洞宗においては、比較的参禅の気風は守られていたようだ。しかし室町中期以降となると、林下と同じように師弟の間で口訣伝授される「密参録」が流行してしまい、本来あった禅風は失われてしまう。このように閉鎖的な環境に陥ってしまうと、自ずと分派活動が促進されることになる。

 また地方をメインに活動していた曹洞宗が円滑に布教するためには、その地の支配者である戦国大名の庇護を受けることが必須となる。その結果、戦国大名の領国ごとに教線を広げていくことになったから、これまたロ-カル色が強くなる要因となった。各門派は互いに連絡がなく、別個に本末関係を結んで発展していったわけである。

 しかしある時期から、曹洞宗のこうした分散的傾向が改められる契機となったイベントが始まる。これはまた同時に、大規模な信者数を獲得することにもつながったのであった。こうした法会が「江湖会(こうこえ)」や「授戒会(じゅかいえ)」、「施餓鬼会」や「大般若会」などである。

 これらは元々、禅僧たちが参禅修行のために集まって行う研修会のような性格のものであったのだが、曹洞宗はこれを一般庶民も参加可能のイベントにしたのだ。

 「江湖会」は「千人湖会」とも呼ばれ、数百人単位の禅僧たちが集まって行う、盛大なイベントとなった。さぞかし熱狂的な雰囲気で行われたものと思われる。「授戒会」もまた盛んに開催されたイベントで、戦国大名から国衆、そして一般庶民まで参加して「戒法血脈」(要するに仏弟子になるということ)を受けられるというもので、一時に何百人もの人々がこれを行った、とある。

 こうした法会は地域の人々にとってはハレの日であって、地方においては現在でも祝祭的な性格を持つものである。しかしここまで大規模なものになると、人々からはもはや興行として受け止められていたようで、実際に開催にあたっては大きな利益も出たようである。勧進興行によって得られた利益は、寺院復興に使用されたから一石二鳥の効果があったのであった。こうした布教活動が功を奏して、曹洞宗は地方において一気に信者を増やしていったのである。

 また巨大イベントを成功させるには人手がかかる。そのためには同じ領国内での「横の結びつき」が有効であったから、曹洞宗寺院間で協力体制がとられ、人手やノウハウの共有が図られた。こうした連携実績の積み重ねは、曹洞宗がまとまっていく動きへの地ならしとなったのである。

 しかし統合の推進力は、なにより領国を統べる王である大名たちであった。臨済宗を統治に利用した室町幕府のように、戦国大名たちも曹洞宗を統治のために掌握したいという動機があったのである。実際、領国内に星の数ほどいる在郷の武士たちの多くが奉じていたのが曹洞宗であったから、彼らを掌握するためにこれを利用しない手はない。そのためには幾つも分派されていては管理上困るのであり、大名主導の下、領域内にある諸派の統合が図られることになった、というわけである。

 そこで大名は、領国内の曹洞宗を統べる立場にいる禅僧を「僧録」として任命した。例えば武田家においては領国内の曹洞宗を統べる僧録として、信濃・竜雲寺の北高全祝(ほっこうぜんしゅう)が任命されたし、徳川家においては可睡斎(かすいさい。人の名前ではない。遠江にある寺院)の鳳山等膳(ほうざんとうぜん)が駿府遠江三河・伊豆4か国の僧録に任命されている。

 大名ごとの分国中心であったが、曹洞諸派はこのような形で統合が成されていったのである。戦国は勝ち抜きゲームであったから、滅びる大名もあれば大きくなる大名もある。武田家の滅亡と共に、竜雲寺は僧録をはく奪されてしまったようだが、可睡斎は徳川家の領国の拡大と共に順調に発展していき、のち東海大僧録に任命されている。

 江戸期の幕藩体制下において、日本の仏教はすべて寺社奉行の管理に入ることになるのであるが、曹洞宗のそれはとてもスムーズに行われている。こうした素地があったことで、全国的な統合が比較的容易に成立したのであった。

 このように早くから総合する力が働いたせいで、曹洞宗諸派に分裂しなかったのである(正確に言うと分派はゼロではないが、無視できるほど小さい)。前記事で紹介した、現在の仏教宗派別ランキングを見てみると、例えば浄土真宗全体で見ると寺院数は2万越えで、曹洞宗の1万4000を抜いているのである。しかし諸派に分裂しているせいで、細かく見ていくと単一でまとまっている曹洞宗に抜かれてしまっているのだ。これこそが今に至るまで、曹洞宗が最大の寺院数を誇る理由なのであった。(続く)

 

画像は横浜市鶴見区にある、曹洞宗大本山總持寺。一般的には永平寺の方が有名だが、記事中で紹介した通り、現在の曹洞宗の法脈はこの總持寺の存在なしには考えられないのだ。元は能登の輪島にあったのだが、1898年に本堂の一部に火災が発生、間が悪いことにフェーン現象による強風が吹いたため全山が猛火に包まれ、伽藍のほぼ全てが焼失してしまった。1911年に現在の位置に移転となる。勿体ないような気がするが、最近能登を襲った大地震のことを考えると、移転してよかったのかもしれない。とはいえ跡地には總持寺祖院が健在で、此度の地震で国の登録有形文化財17棟を含む、七堂伽藍や回廊などが倒壊してしまったとのことで、早急な復興が望まれる。