この「天文法華の乱」を以てして「日本における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松本問答」なのだから。
だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。
また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあっただろう。経済的な動機も大きかったのではないだろうか。
その証左となるのが、乱の後の叡山の動きである。日蓮宗寺院は粘り強く、京への還住を目指し、各方面と交渉を続ける。そして先の乱より10年たった1547年に、ついに京への復帰が認められるのである。ただし条件があった。叡山が当初目論んでいた「日蓮宗寺院の末寺化」は何とか拒否することができたのだが、その代替として毎年1000貫文という大金を、祭礼費用として叡山に上納することになったのだ。結局は教義ではなくて体面、そしてゼニカネの問題なのである。
ともあれ、こうした動きと引き換えに、日蓮宗寺院は元あった跡地へと戻ることができた。町中に槌の音が鳴り響き、多くの寺院の復興が始まる。乱の前に21カ寺あった日蓮宗寺院のうち、15カ寺までは元あった同じ場所に復活するのだ。法華信徒たちの数も、再び増えていく。
1549年には、かつて一向一揆に殺された三好元長の子、三好長慶が京を掌握する。三好一族には敬虔な法華宗徒が多い。特に長慶が頼りにしていた次弟、三好実休は名僧・日珖に帰依し、堺・妙国寺の創建に力を貸すなど、その信仰心は深かった。こうした背景もあって、法華宗徒たちは再び力を盛り返していくのである。
三好実休は1562年7月に久米田の戦いで戦死しているが、彼を討ち取ったのは根来衆の勇者・行来(おく)左京こと左京院友章であった。実休の死を契機として、三好家の没落が始まるのである。久米田の戦いについては上記記事を参照。
永禄年間(1558~1570年)のどこかで、宣教師ビレラが京における有力な日蓮宗寺院であった本国寺を見学している。彼が本国に送った報告書には「本国寺に居住する僧は370人、方形にして周りに濠を巡らしている。境内は市街のごとく整然とし、瓦屋根の堂が立ち並び、その中には美しい屏風や、素晴らしい庭がある」といった旨を記してあり、相当な威勢を誇っていたことが察せられる。
そんなわけで日蓮宗は、1547年に再び京へと戻ってきたわけだが、日蓮宗の一時的な避難場所となっていた堺はどうなったか?多くの寺院が移転した後、堺は廃れたかというとそんなことはなかった。過去の記事でも述べた通り、堺の最盛期は1560年代なのである。
そしてここからは筆者の個人的な考えになるのだが・・・会合衆らが政務を執っていた60年代の堺においては、自治権はかつてないほど向上している。これは京から避難した日蓮宗の影響が大きかったのではないだろうか?
宗教的色彩を帯びてはいたが、「民衆による自治」という概念に触れた堺。京からもたらされたこの新しい思想が堺に入ってきたことにより、堺のその後の自治権強化につながった、という側面はあったような気がする。京と違って堺の自治に宗教的な側面が薄かったのは、日蓮宗の寺の多くは再び京へと戻ってしまったからだろう。
これは単なる思考実験だが――この時、堺にあった日蓮宗の寺が「京に戻らない」という選択をもししていたならば、堺は1530年代の「集会の衆」が支配していた京のように、より強大な宗教的自治都市を形成していたかもしれず、そんな異なる世界線の並行宇宙が、どこかにあるかもしれない。
いずれにせよ、法華宗徒らによって灯された京の自治の火は、弱められたけれども完全には消えはしなかった。宗教という枠組みの中で成立した「町組」「月行事」などの自治の仕組みは、宗教的な色合いを薄めつつも、今度は地縁という枠組みの中で成長していくのである。(終わり)
<このシリーズの主な参考文献>
・洛中洛外の群像/瀬田勝哉 著/平凡社
・信長が見た戦国京都/河内将芳 著/法衛館文庫
・戦国時代の京都を歩く/河内将芳 著/吉川弘文館
・戦乱と民衆/磯田道史・倉本一宏・Fクレインス・呉座勇一 著/講談社現代新書
・その他、各種論文を多数参考にした