根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った町衆たち

 1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。

 いまだ戦いをやめない、一部の本願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。

 一向一揆は実に手強かった。本拠である山科本願寺炎上後、畿内における一向一揆の最後の拠点・大坂御坊もすぐに陥落するかと思いきや、細川・法華一揆連合軍を見事に撃退、33年の2月10日には逆に堺を攻めて、これを陥落せしめている。

 晴元は間一髪のところで脱出に成功、命からがら淡路に逃亡しているが、一時は「討ち死に」という噂まで流れるほどであった。そして晴元が畿内から駆逐されたことにより、京都の支配権力に空白が生じたのである。

 これを契機として、京では日蓮宗徒「衆会(しゅうえ)の衆」たちによる本格的な自治が始まったのだ。「洛中洛外のご政道」を彼らが行った、という記録が残っている。ここでいう「ご政道」とは検断権、つまりは警察・治安維持活動、そして刑事裁判権のことである。

 例えば33年の2月14日――この4日前の10日に堺が陥落、洛中では晴元死亡の噂が流れていたこともあり、みな殺気立っていたときのことである。碌な証拠もないのに、浄土真宗を奉じる伏見西方寺の住持を捕まえて、一向衆のスパイと断じて勝手に処刑する、という事件が起こっている。

 実のところ、この僧はスパイでもなんでもなく、前関白・二条尹房(ただふさ)の夫人・九条経子の乳母の実子で、道を歩いていたところを日蓮宗立本寺の僧らに、いきなり拉致されてしまったのであった。この僧を救うために多くの公卿が走り回り、助命嘆願をしたが、徒労に終わっている。捕まったその夜のうちに、処刑されてしまっていたのである。

 更にこの事件が起きてから4日後の18日。法華一揆による打ち回りの最中に、とある報せが入った。一揆はたちまち戦闘態勢を整え西京へ急行、そこで3人の男を捕らえている。罪状は「放火の疑い」で、有無を言わさずその日のうちに、公開処刑されてしまうのだ。

 例の山科言継が友人たちと連れたってこれを見物しており、日記に詳細が残っている。それによると処刑現場となった妙顕寺門前は黒山の人だかりで、甲冑姿の僧侶たちが物々しく睨みをきかせていた、とある。この公開処刑は、どうも法華一揆の上層部による合議で決まったらしく、「公方・管領の御成敗を元に」というのが一応の建前であったようだが、いちいちお伺いなど立てていない。

 上記の2例の処刑は、対象がそれぞれ「敵である浄土真宗の僧」と「放火犯」である、という建前がまだあった。しかし3月2日に行われた、東禅という僧の処刑に至っては、無理筋もいいところである。対象は壬生寺、つまり本願寺とは無関係の宗派である律宗の供僧であり、罪状は「一向一揆に内通した」という、極めて根拠の弱いものであった。まさしく私刑(リンチ)に近い処断であり、フランス革命末期の処刑ラッシュや、文化大革命における紅衛兵の暴走を連想させる。

 しかし「衆会の衆」によるこうした検断権に対し、幕府も後から不問、という形で追認せざるを得ない状況だったと思われる。なにしろ(元は自分が呼び込んだ)一向一揆に対抗するためには、京の法華宗徒らの兵力は不可欠だったのだ。

 京衆が何らかの形で幕府に軍勢を提供したのは、前の記事で言及した通り、今回が初めてではなかった。そして軍勢提供の対価として、時の政権が地子銭(土地と建物にかかる、固定資産税のようなもの)を免除する、などの動きは前から見られていた。だが、ここにきての更なる成功体験は、はっきりとした地子銭の不払い運動として現れる。

 例えば、四条綾小路にある屋地において、京の町衆が払うべき地子銭を、地主である鹿王院という寺院に払っていない記録が残っているのだ。残された文書から推測するに、どうも幕府や地主と同意しての取り決めではなく、一方的に払っていなかったようである。ちょうど1534~36年の間だから、まさしくこの自治の期間中のことである。そしてこうした町衆による洛中地主(主に寺社と公卿)に対する地子銭不払い運動は、ここだけではなく洛中全体に広がっていたようだ。これも幕府としては黙認するしかなかったようである。

 そして極めつけは、京周辺の村の「代官請」を幕府に対して要求する、という動きである。代官請とは、端的にいうと徴税請負権のことである。徴税請負権は、その地における最大の利権であり、その地の支配へと至る第一歩である。税の中抜きから始まり、次第にその量を増やしていき、最終的には年貢の100%を我が物にする、というのがお決まりのパターンである。

 これは例えば、根来寺泉南において利権を拡大した手法と同じであり、法華一揆たちが京周辺の農村を実質的に支配しようとしていたことを意味するのだ。

 流石にこの動きは頓挫したようだが、「衆会の衆」による自治の動きは、この時期にピークに達したといえるだろう。(続く)

 

洛中洛外図屏風歴博甲本) より、「六角堂」(頂法寺)。現在建っている本堂は明治になって再建されたものだが、位置的には変わっておらず、今と同じ下京の六角通にある。この図では本堂はただの寄棟造で六角形になっていないが、どうやらこの建物の中に六角円堂があったらしい。天台宗の寺であったが、宗派とは関係なく下京における町堂(集会所)の役割を果たしていた。境内の右上に鐘楼が見えるが、下京では何か事があるとこの鉦が鳴らされ、町の人々がここに集まってくるのである。この時期の下京の自治運営も、この六角堂で集まって話されていたと思われる。なお上京においては一条にあった「革堂」(行願寺)がそうした役割を果たしていた。こちらは16世紀末の秀吉の京都改造によって、京都御苑の東側に移転してしまっている。