根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その⑫ 天文法華の乱・京都炎上

 そして運命の日、1536年7月23日。その夜、みやこの人々は東にある叡山を遠望し、恐怖におののいたことだろう。山中に無数の篝火が焚かれ、蠢いている。そしてその火は、列となって一斉に山を下りてくるではないか。みやこを襲わんと、松明を手に下山する叡山の大軍勢である。

 追い詰められた法華宗徒たちも、総力を結集する。何とかかき集めた軍勢は2万ほど。みやこの東側に陣を構え、山法師らを迎え討つ構えを見せた。翌24日から、御霊口辺りで小競り合いが始まる。この時に攻めてきたのは、主に叡山の僧兵どもだったようだ。25日にも東河原において合戦があり、京勢がよく防いだことが記録に残っている。

 法華宗徒も必死なのだ。実は最後の希望として、六角定頼を仲介した停戦に向けての調停工作が、戦っている合間も続けられていた。この時点で六角氏は兵を出してはいたものの、まだ本格的には参戦していなかった。宮中女官が記した「御湯殿上日記」7月26日の条には、「今日も(叡山の)軍勢が河原を越してきたが、合戦はなかった」とある。権大納言の三条日公条は宮中に参内して、後奈良天皇に「停戦が成りそうだ」と伝えている。和議は近い、との噂が京を駆け巡ったのである。

 しかし27日になって、調停は破談。同時に六角氏の軍勢が本格的に参戦する。どうやら攻撃の態勢が整うまでの、遅延工作にすぎなかったようだ。叡山と六角氏の連合軍、併せて6万の兵が餓狼のように京に襲いかかった。

 停戦の噂にすっかり油断しきっていた京勢。しかも数は3倍である。過去の記事で紹介したような、京を囲む本格的な「総構」が、この時にあったかどうか分からない。しかしそもそも京は防衛戦には不向きの地形であり、古来より防御が成功した例はほとんどない。

 また先の「天文の錯乱」の際、法華一揆らが一向一揆と戦った時は、実のところ木沢長政や山村正次といった、幕府から派遣された歴戦の武将が指揮を執っていた。ではこの時の町衆を率いていたのは誰だったのかというと、一応は頭目として「後藤」「本阿弥」「茶屋」「野本」といった名が伝承に残っている。だがこれらの名は、いずれも江戸期には豪商となる家柄であり、後世になってから箔付けのために捏造したものと見られている。いずれにせよ幕府の協力が得られていないことから、軍を率いていたのは武士ではなく、法華宗徒側の人間であったことは間違いないだろう。戦さに関してはアマチュアのレベルだったと思われる。

 これに対して六角側は、戦さを専業とする武士たちの本格的な軍隊である。プロによる攻撃の前には、ひとたまりもなかったようだ。六角配下の三雲・蒲生衆が四条の防衛口を突破、ほぼ同時に御霊口・三条口も破れ、あっという間に京は陥落した。

 「自宗・他宗を選ばず、老少多くなで斬り」(「座中天文記」)とある通り、僧形の人間はかたっぱしから斬られたようだ。そんな大混乱のなか、日蓮宗寺院は徹底的な略奪にあう。戦乱につきものの火災も発生、この大火により上京は3分の1が焼けたという。応仁の乱の際にもさほど大きなダメージを受けなかった下京は、この時ほぼ全域が焼き尽くされてしまった。この乱により死んだ法華宗徒は、3千とも1万とも伝えられている。巻き添えを食らった一般市民も、多く殺されている。

 叡山、そして六角氏の追及は容赦ないもので、焼け野原となった京では更に日蓮宗の残党狩りが行われた。叡山によるものはとにかく、六角氏によるものは残党捜索に名を借りた単なる略奪だったようだ。あまりに酷い狼藉に、後奈良天皇は伊勢貞孝を通じて「近江軍の狼藉を厳禁するよう」六角軍に申し入れてさせている。

 そしてすべてが終わった後、摂津で状況を静観していた細川晴元が、再びの入洛を果たし、名実共に京の支配者に返り咲く。9月に入ってからのことであった。

 

ikiより画像転載。第34代管領細川晴元。他勢力の力を借りて、敵対勢力を滅ぼすのに長けていた。裏を返すと独自の軍事力を持っていなかった、ということでもある。そういう意味では、こうした綱渡りのような政治的曲芸を続けていくしか、彼には選択肢がなかったのかもしれない。実質的な影響力のあった、最後の管領である。(なお、管領には就任していなかったという説もある)

 日蓮宗の全ての寺は破却され、京から追い出されてしまう。以後6年間、日蓮宗は京においては禁教となるのだ。生き延びた僧侶や、熱心な法華宗徒たちは本尊を持って堺へと落ち延びていった。そこで京への還住を目指し、雌伏の時を余儀なくされるのである。(続く)