根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・比叡山延暦寺、兵を挙げる

 山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われるのだ。これは前代未聞の出来事であった。

 これを苦々しい思いで見ていた者たちがいる。比叡山延暦寺である。

 開山当初から霊的な意味で京を守ってきた彼らは、その地にまた絶大な権益をも有していた。元々、京にあった有力な土倉・要するに銭貸しは、軒並み叡山が経営するものであった。だが室町時代も後期に入ると、足利幕府による統制の影響もあって、山門による銭貸し業は大打撃を受ける。

 その間隙を縫って、台頭してきた新興勢力が「町衆」の中の新義商人たちであり、彼らこそが法華宗徒をメインとする構成層だったのである。代表的なのが、拙著でその商品だけ登場する「柳酒屋」である。高級酒の製造元であったこの柳酒屋は、また土倉も経営しており熱心な法華宗徒でもあった。

 町衆にしてみれば、叡山は既得権益固執する守旧派だ。そこで信仰面でのカウンターパートとして、日蓮宗が選ばれたということかもしれない。西欧における、カトリックとカルバン派の関係性に似ている。

 日蓮宗という新興勢力の伸長を、叡山が黙って見ていたわけではない。これまでも言いがかりに近い文句をつけて、祇園社(八坂神社のこと。この時代は延暦寺に所属していた)の犬神人たちを動員し、日蓮宗の寺を破却するなどの、嫌がらせ行為はしていた。例えば、1413年の三条坊門堀河法花堂と四条法華堂の破却などがそれである。しかし徐々に、日蓮宗は勢力を拡大し、力をつけてくる。そう簡単にはやられなくなってくるのだ。

 そして畿内を席巻した、一向一揆による暴走「天文の錯乱」。この乱に際して、叡山は基本的には山に引きこもったまま「我関せず」というスタンスで、何ら有効な手段を打たなかった。その一方で、町衆たちは自らの力で京を守り抜いたのである。

 京は完全に法華宗徒らの手に落ちてしまった。自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが、叡山にしてみれば宗門の存続にかかわる死活問題である。彼らは虎視眈々と隙を伺っていた。そして、その機会がついに訪れたのであった。

 1536年、後年「松本問答」と称される、辻説法を契機とする大騒動が持ち上がる。京の一条烏丸で延暦寺西塔の僧、華王房が辻説法をしていたところ、熱心な法華宗徒である松本久吉が論戦を吹っかけて、大勢の見物人の目の前でこれを論破してしまったのだ。後発の宗派であった日蓮宗は、他宗に対して好んで論戦を挑む。こうした好戦的な性格は宣教には有利に働くのだが、今回はそれが災いした。

 これを「一山の恥辱」と受けとめた叡山は、この機会を逃さじ、とばかりに全山決起したのである。まずは「法華宗」という呼号をやめ、今後は全て「日蓮宗」にせよ、という宗号変更の訴えを幕府に起こす。流石にこの訴えは無理筋だったようで退けられたのだが、その裁定を不満とする叡山は、実力行使による法華宗徒の壊滅を決心するのだ。

 

明治になって撮影された、外国人観光客向けのブロマイド。いわゆる一般的な僧兵のイメージと言えばこれだろう。

 叡山は用意周到であった。軍を発する前に越前の朝倉氏などの諸大名の他、異なる宗派――高野山根来寺興福寺本願寺をはじめ、これまで敵対していた東寺・園城寺らに対してまで、自らに合力することを求めたのである。

 実際に援軍を送ってくれたのは園城寺だけだったようだが、それで充分であった。残りは皆、局外中立を守ることを誓ってくれたからだ。それに留まらず、本願寺など叡山に軍資金を送った宗派もいた。

 一方、孤立無援となってしまった法華宗徒たちはどうしたのか。他宗が駄目なら、世俗の力に頼るしかない。先の「天文の錯乱」の際に、京の町衆に合力を要請してきた管領細川晴元はどうだろう。晴元には貸しがある。是非、力になって欲しいところだ。

 だが晴元は、法華宗徒を見捨てたのである。彼にしてみれば、言うことを聞かなくなってきた法華宗徒はもはや用済み。京における支配権を取り戻すいい機会、とばかりに摂津で日和見を決め込んだのである。それどころか、両者の対立を煽っていた形跡まであるのだ。

 更に絶望的な知らせが届く。山科本願寺と戦った時は、共に戦ってくれた六角定頼までが叡山に合力するために、兵を出したという報せが届いたのだ。

 こうして京の運命は極まった。(続く)