時衆は全国に教線を伸ばし、2世・真教のころには時衆道場の数は100ヶ所にも及んでいる。これらの道場のスポンサーは、その殆どが武士たちであった。意外に思われるかもしれないが、時衆と武士の相性は実はとてもよかったのである。
真教の頃に確立した時衆教団の宗風を簡単に表すと、「念仏を唱えるという、誰でもできる念仏という易行でありながら、同時に欲望を捨て厳しい戒律を守ることが要求される」というものであった。信者に厳しい戒を要求しその可否を判定するのが、時衆の最高責任者である「知識」である。時衆にとって知識は絶対的な存在なのであった。
これは武士社会における主従関係と似ている。成人した武士は「見参」という儀式で、主君にお目見えすることで主従関係を成立させる。時衆の信者も同じように入信時に知識に身命を捧げることを誓うのである。
「一所懸命」という言葉に象徴されるように、生まれ育った地に土着して生きる武士たちは、徹底したリアリストであった。そんな彼らは一族の繁栄の保証、つまりは現世利益を守るために、打ち物持って命を懸けて戦うわけである。
しかし死後の保証、つまり往生の方は門外漢であるから、その方法を鎌倉仏教諸派に求めざるを得ない。数多ある選択肢の中、時衆は易行でありながら厳しい戒律を持ち、主従関係に近い縦の関係性があるわけで、そんな宗風に「いいね!」と思ってマッチングした武士たちも、少なからずいたわけである。
そんな武士たちのニーズに応えるがごとく、時衆には「陣僧」という名の独特な役割を果たす僧侶がいた。これはどういうものかというと、武士に雇われ共に戦場に赴いて、戦死した際には往生する手伝いをするという役割の僧なのである。(なお他宗の僧も陣僧として従軍することもあったようだが、多くが時衆であったのは間違いない)
特に南北朝期には数多くいたようで、「太平記」「明徳記」「大塔物語」などの軍記物によく登場してくる。彼らは具体的に、どのような活動をしていたのだろうか?
1332年、楠木正成が籠城していた赤坂城を幕府軍が攻めた時、人見四郎恩阿と本間九郎は抜け駆けして城に攻め寄った。奮戦した挙句、2人は討ち死にしてしまうのであるが、その際には彼らに付き従ってきた「最後の十念を勧むる聖(ひじり)」から念仏が授けられた、とある。また2人は首を取られてしまっていたのであるが、この聖は楠木方と交渉し、首を取り返し四天王寺に持ち帰って供養したのである。
討ち死にしたこの人見四郎であるが、恩阿入道という法名を持っており、時衆信徒で往生した者の名が記載される「時衆過去帳」にも同名が記載されていることから、時衆に帰依した武士であったのは間違いない。この頃、確実に往生するためには、死ぬ直前に十念(念仏)を唱えてくれる人がいることが大事だと考えられていたようだ。しかし戦っている最中に自ら念仏を唱えるのは難しいので、陣僧として同じ時衆の僧を雇い、従軍をお願いした次第なのだろう。
福井西福寺に残っている文書には「丹後の陣に、陣僧を召し連れていきます」という旨の内容が記載されている。また佐久金台寺に残された文書には「(信者である)武士が戦場に出ているので、寺(おそらく藤沢道場)に参詣する人がおらず、静かで何事もありません。聞くところによると、(城の)守り手も寄せ手も、みな戦いながらも念仏を唱えていたということです。この道場にいた僧たちもみな浜辺に出て、念仏を勧めて往生を遂げさせました」という旨の記述が残っている。
このように戦陣の合間を縫って、武士たちの往生の手助けをした陣僧たちであるが、僧という身分を利用して、相手側の陣に使者として立つ場合もあったという。
次第に陣僧としての役割が拡大してしまったのだろう、このままではいかんということで、1399年に藤沢道場6世の自空が陣僧の心得を示している。以下の4つである(意訳してある)。
(1)今際の際に念仏を唱えるのが、陣僧としての本分である。封鎖された道だが陣僧なら通れるということで、書類を携えて(味方の陣への)使者となった僧がいると聞いたが、許しがたいことだ。ただし女・子どもなどの非戦闘員を救うための使者になるのは問題ない。
(2)戦場では、己の身を守るために鎧兜をつけることはいいが、敵を殺すために弓矢や刀剣の類を身につけることは許されない。
(3)陣にいても、時衆僧に定められた戒は守るように。歳末の別時の際は冷水を浴び、汚れを拭き、食事をささげ、念仏を唱えること。状況によっては難しいかもしれないが、できる限り行うこと。
(4)合戦が始まったら、改めて時衆になった時のことを思い返し、檀那の一大事に及んでは念仏を勧めて往生することに勤めよ。またわが身も往生できるように心がけること。
(1)は使者としての役割を拡大解釈し、自軍に有利な行動を取らせるよう命ずる武将がいたのだろう。それを改めて禁じた内容である。(2)は戦闘不参加に関する規定。合戦に参加してしまうような、血気盛んな僧がいたのであろうか。或いは陣僧と偽って、戦闘に参加する不埒な者がいたのかもしれない。(3)と(4)は時衆の僧としての心得である。
とはいえ更に時代が下ってくると、陣僧の使者としての役割は増えていった。戦国期にポルトガル人宣教師が作成した「日葡辞典」には「Ginzo」という項目があり、そこには「何か伝言を持って陣営に赴く僧侶」とあるのだ。また負傷者の治療を行うという、軍医としての役割を果たすようになってくる。更には和歌・連歌に達者であることも求められてくる。これは長引く戦陣にて、檀那の無聊を慰めるために行う行為なのである。
従軍僧である陣僧は、敵味方の区別なく救っていたようだ。1521年11月、甲府に向けて進撃した駿河の今川勢が、飯田河原そして上条河原にて武田信虎(信玄の父)率いる武田勢と戦い、大敗したことがある。この一連の戦いで今川勢の総大将・福島助春以下、福島一門はことごとく討ち死にしてしまった。
戦場に遺棄されていた駿河勢の遺骸を集め、手厚く葬った時衆僧がいる。信虎に請われて一蓮寺(一条道場)に入った時衆僧・不外とその弟子たちである。彼はそのとき武田方の甲府に滞在していた僧ではあったが、一遍以来の伝統である遊行を続ける遊行上人であったから、今川勢の戦死者の菩提を弔ったのであった。武田氏の研究で知られている平山優氏によると、今でも甲府市後屋町には「福島塚」という地名が残っているが、これはこの時に不外が築いた墳墓に由来するようだ。
それだけでなく、不外は戸田城に逃げ込み籠城した敗残兵を救うために信虎との間に入り、今川勢3000を(恐らくは何らかの見返りと共に)無事に駿河まで撤退させている。不要な戦死者を避けるための使者として役にたったわけだから、不外は仏道に仕える者としてのあるべき姿を、見事に体現したといえるだろう。
なおこの直後、不外は弟子たちと共に諏訪へと遊行の旅を続けている。(12月26日追記:不外は遊行上人だったので、移ったのは単なる遊行の一環だったようだ。なので信虎と不仲になったわけではなさそうだ)
