「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できるのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ。」――これが一遍の主張であることは、前記事で紹介した。
そして一遍の主張はこう続くのだ――「だから思う存分に、念仏札を配るのだ。そして念仏を唱えるのだ!」
上記の主張からは、一遍の喜びが伝わってこないだろうか。我々は既に救われているのだ。こんなに嬉しいことがあろうか!念仏札を配るのも、楽しくてしょうがない。配っているうちに喜びが体の中から湧き上がってくる。その喜びに身を任せ、さあ念仏を唱えよう!(※この時点では、まだ踊っていないのに注意)
これはブログ主の個人的な見解なのだが、宗教的回心を成した後の一遍の遊行は、このような形で始まったのではないだろうか。念仏札の配布と称名念仏は、あくまで救われていることを告知するためのツールであって、救いを求めるための手段ではなかった。しかし大勢の人が一堂に会した時、その喜びを共有するためには、皆で念仏を唱えるのが一番自然だったのではないだろうか。
勿論、そうではないという研究者も多くいる。一遍の名の由来は、「ひとつにして遍(あまね)く」から来ている。この名乗りから分かるように、一遍は「念仏は何遍唱えるかは問題ではない」と考えていた。しかし念仏札を配る、また念仏を唱えるという行為自体には、きちんと意味があると考えていた、というものだ。
実際、一遍が配る念仏札にはこう書かれているのだ――「南無阿弥陀仏の六文字を唱えることこそ、極楽浄土への救いの道である」。唱える行為は大事だということであれば、「信じようと信じまいと」という先の言葉とは、些か矛盾してしまうことになってしまわないだろうか。
この辺りの矛盾だが、捉え方としては2通りあるだろう。まず一遍自身の教義がまだ固まっておらず、整理しきれていなかったということ。思想的にはまだ過渡期であって、矛盾を内包しつつ活動していたということである。彼はひとつところに定住せず、長く住んでも4~5年という感じの生活スタイルであったから、自らの教義を整理してまとめる時間がなかったかもしれない。また法然や親鸞に比べると、比較的早くに往生している(享年51)ことも響いたかもしれない。
もうひとつの考え方、これはブログ主の個人的な見解なのだが――実は一遍の教義がどれほど正確に後世に伝わっているか、些か疑問なのである。彼は死ぬ直前に、自らの著作と所蔵していた蔵書の多くを焼き捨ててしまっているのだ。つまり今に残る彼の教義は、のちに弟子たちによって再編成されたものなのであるから、彼の本意がどこにあったのかは正確には分からないのである。素人ながらブログ主としては後者であってほしいと考えるものであり、彼の本意はこの記事の冒頭で述べた通りだったのではないかと考えたい。
さて、そんなわけで称名念仏を唱えつつ、念仏札を配るという遊行を行っていた一遍であるが、肝心の「踊り」はいつから始まったのだろうか?
一遍の遊行に踊りが取り入れられたのは、どうも1279年8月のことらしい。場所は信濃国佐久郡・小田切の里。地元の武士、大井太郎の館を訪れたときのようだ。

上記の画像にある「一遍聖絵」にあるように、踊り念仏は誰かが明確な意図をもって指導して始まったというよりも、自然に発生したもののようだ。
この大井太郎の館で行った踊り念仏は、なんと三日三夜もの間続いたという。「何かすごいことが行われているぞ」そんな噂を聞きつけて、周辺よりどんどん人が集まってきたのだ。最終的に集まった人数は500~600人。みな何かに憑かれたように、板を踏み鳴らし踊り続けたため、遂には家の板敷きが抜け落ちてしまった。これを喜んだ大井太郎は、修理しないでそのまま記念として保存したという。
これが「踊り念仏」の始まりなのである。一遍は殆ど財産を持たず、20~40人たちの弟子たちを率い(半数は尼僧だったようだ)、このようなスタイルで各地の遊行を続けた。遊行が続くにつれ、彼についていく人は増えていく。そして回数を重ねるにつれ、踊りそのものも次第にブラッシュアップされていくのである。(続く)
なお発祥の地である長野県佐久市では、「跡部の踊り念仏」として今でも実演が行われていて、重要無形民俗文化財に指定されている。動画を見ると中央に太鼓があり、その周りを踊り手が輪になってぐるぐる回っているのが分かる。「一遍聖絵」でも、僧たちがそのような動きをしていることが確認できる。ただ、音楽や節回し・踊りの動きなどは中世のものと比べると大分、洗練されたものになっている印象がある。一遍が行っていたものは、もっと野趣あふれる感じだったのではないだろうか。