信州小田切里にて行われた、初の踊り念仏。これを皮切りに、一遍らは踊り念仏を行うようになるのだが、まずは手探りといったところで、遊行先で必ず踊りが開催されたわけではなかったようだ。踊りそのものもまだ出来たばかりだったから、どのような手順ではじまり、どうクライマックスを迎えるのかなど、試行錯誤で行っていたようだ。
なお「踊り念仏」そのものは平安期の市聖・空也が始めたという説がある。実は一遍自身がそのようなことを言っていたようなのだ。しかしながら空也のそれは同時代の記録には残っておらず、また彼の死後は広がりも見せずに隔絶してしまっていることから、踊り念仏と称されるほどのものではなく、「リズミカルな称名念仏」レベルのものに留まっていたのではないだろうか。
ではなぜ一遍がそのようなことを言ったのかというと、踊り念仏の格付けのためであったと思われる。偉大な空也の名を借りることで、踊り念仏は由緒あるれっきとした法事である縁(よすが)としたのである。一遍は空也のことを「我が先達」と呼んで非常に尊敬していたから、彼の名を喜んで借りたに違いない。
いずれにせよ回を重ねるにつれ、場の仕切りや進行、そして踊りそのものも次第に洗練されていったことだろう。「一遍聖絵」には同年3月の鎌倉・地蔵堂にて行われた踊り念仏の様子が描かれているが、ここではわざわざ会場に板屋の高舞台を組まれ、そこで一遍らが踊りながら読経している様子を確認できる。演出面で進化していることが分るのだ。
一遍らは各地でこのような遊行を行いながら、近江に到達する。近江では関寺にて踊り念仏が開催されているが、ここでは池の中島に板敷の「踊り屋」が設けられるというスタイルであったようだ。(これについては次の記事で詳細を述べる)
東から西へ――次第に京のみやこに近づいていく一遍。かしましい京雀たちの間では「一遍上人という偉い人が来るらしい。そしてそれは、何だか凄いものらしいぞ」という噂が流れていたに違いにない。京に近づくにつれ、一遍に対する期待は膨らんでくる。そして遂に1284年4月、みやこ中の人々が待ち望んでいた一遍が入洛したのである。一行はまず四条京極の釈迦堂に入る。そこで念仏札を配り、踊り念仏を行っている。記録には「貴賤上下群れをなして、人は振り返ることもできない。車も戻れない」とある。
そしてクライマックスは、同年9月、京・市屋道場において開催された踊り念仏であった。市屋道場は、一遍が尊敬するあの空也が建てた道場である。そこで開催される踊り念仏は、一遍にしてみれば特別なイベントであったから、相当気合を入れて踊り念仏を行ったと思われる。
善阿弥の孫、又四郎についての記事は、こちらを参照。優れた作庭家であったのみならず、自らを律した素晴らしい人であった。
1969年8月15日、アメリカ・ニューヨーク州にて大規模な野外コンサートが行われている。後年、伝説的なフェスであったと称されることになる「ウッドロック・フェスティバル」である。
この「ウッドロック」は、アメリカ中から予想を大幅に超える40万を超える若者たちが集まったフェスだ。仕切りはアマチュアレベルで無秩序であったにも関わらず、驚くほど平和裏に終わっており(暴力行為の報告はゼロ、ちなみに出産は2件)、今も60年代カウンターカルチャーの最高到達点であったイベントと見なされているのだ。
一遍の京・市屋道場における踊り念仏も――強引な例えだが――ウッドロック並みの衝撃を当時の日本に与えたのではないだろうか。これに参加した人々は口々に、如何に凄いイベントに参加したか、そしてそれがどんなに素晴らしい体験であったかを、会う人ごとに伝えたに違いない。当時最先端の文化の発信地である、京のみやこで一遍が開催したこの伝説的イベントの噂は、瞬く間に全国に駆け巡ったのであった。
以降、踊り念仏というイベントは日本のそこかしこで行われるようになる。「喜びのまま踊れ。考えるな、感じるんだ!」――歓喜踊躍した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦をたたきながら乱舞する。とにかく小難しくなりがちな、これまでの仏教の理論から脱却し、感覚を重視した踊り念仏は、エンタメ性が高く興行的性格の強いものであったから、瞬く間に全国に普及したのであった。
また決まった型がなかったため、宗教的というよりも娯楽的になり、全国各地でローカル色の強い踊り念仏が行われるようになる。各地で発生したこの踊り念仏が、後年お盆である盂蘭盆会の行事とくっついて、郷土色豊かな「盆踊り」になっていったわけである。確かに櫓の周りをぐるぐる回って踊るというスタイルは、今の盆踊りそのものだ。
また、近世の初めに出雲の阿国が、このころ民衆に浸透していた踊り念仏に、歌も混ぜて踊ったのが歌舞伎の始まりとなった、という説もある。そういう意味では、踊り念仏は日本の民俗文化に深い影響を与えているのである。
51歳で、一遍は往生する。文字通り「旅に生き、旅に死んだ」捨て聖の死に様もまた、鮮やかなものであった。先にも述べたが、死に臨んだ一遍は、自らの著作を含む蔵書のほとんどを焼き捨てている(一部は譲渡)。普段から「我の念仏勧進は一代限りなり」と言っていた通りである。また自らの遺骸を「野に捨ててけだものに施すべし」とも言い残している。
鎌倉新仏教の祖師たちの中で、このような死に方をした僧は彼だけである。まさしく「捨て聖」の名に恥じない、天晴な最期であった。(続く)