根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑬ 踊り念仏・一遍  行く先々で多大な利益を与えた、興行としての踊り念仏

 法然の浄土宗を皮切りに、道元栄西親鸞日蓮など、鎌倉新仏教の宗祖らは、いずれも旧仏教サイドから弾圧された歴史を持つ。しかし一遍の時衆に関してはそうした例があまりない。これは何故だろうか?

 そのヒントが「一遍聖絵」に描かれている。前記事でも少し言及したが、1284年3月、近江・大津の関寺にて踊り念仏が行われている。この時の踊り念仏を描写した絵巻を見てみると、面白いことが分かるのである。

 

一遍聖絵」より、近江・関寺で開催された踊り念仏。高屋ではなく池の中島に踊り屋が設けられるという、変わったスタイルで行われている。

 

 踊り念仏が描かれたシーンでは、高屋の踊り屋で開催されているものが多いのだが、ここではそうではなく、池の中島に設けられた踊り屋で行われている。ここから視線を左に移してみよう。寺の本堂があるが、よく見ると普請中なのである。普請中ゆえに高屋を建てるスペースがなく、中島にて行われたということかもしれない。つまり踊り念仏は状況に応じて、いろいろなシチュエーションがあったということを意味するのだが、ここからもうひとつ別の意味を見出すことができる。

 普請中の寺で行われたということは、これはつまり「勧進興行」なのである。ここで踊り念仏を開催する際には、寺の建設費用を贖うため寄進が募られたと推測されるのである。

 この関寺はのちに時衆の寺となるのであるが、当時はどこの宗派の寺であったかは分かっていない。ただこの辺りは園城寺三井寺)の縄張りであった。そして一遍らが近江入りした際には、園城寺から「布教よろしからず」という警告を受け取っていたのである。しかしその後、一転して「一遍の化導の趣旨は、因縁がないわけではないから」という曖昧な理由で、園城寺から布教OKの許しが出ている。そこで始めは7日間、結局は延長されて14日間の行法が行われた、とあるのである。

 実際のところ、これは関寺勧進興行の際に多額の金銭が動き、そのうち何割かのあがりが園城寺に支払われた、ということを意味するのではないだろうか?延長したのも、思ったよりあがりが良かったから、ということであろう。

 桜井哲夫氏による「一遍 捨て聖の思想」によると、先の記事で紹介した、市屋道場における踊り念仏を描いた場面で、勧進行為を裏付ける描写があるとのことである。会場入り口に屏風で囲われた場所があるのだが、ここは恐らく勧進した人たちが座る、特等席であったと思われるのだ。

 

一遍聖絵」市屋道場での踊り念仏の一部を拡大。勧進した人用の特等席と思われる場所。富裕層や身分の高い人たちは、牛車からここまで誘導され、仕切られたこの場所でゆっくりと見物したのであろう。周りには護衛と思われる侍たちが控えている。

 

 多くの観客が集まる踊り念仏が行われる際には、その準備から勧進・そして後始末まで、興行を仕切る存在が不可欠であった。こうした興行主がいるということは、つまり「踊り念仏は儲かった」ことを意味するのである。

 一生を遊行で終えた一遍らは、各地を遍歴していた。当時の治安は極めて悪く、土地の悪党どもは盗賊行為も辞さなかったから、一遍ら一行も危険にさらされることもあったようだ。遊行の初期には、一行の尼僧が悪党どもに攫われそうになった、とある。しかし踊り念仏が始まってから彼の名が高まるにつれ、危険度は減っていったようである。

 例えば一遍らが鎌倉から美濃・尾張を経由して、西へ向かった時のことである。旅先の道中には、悪党たちの手により高札が立っており、そこにはこう書かれていたという――「一遍上人に危害を加えてはならない。もしこれを守らぬ者は、我らが誅罰を与えるだろう」。以降、一遍は遊行先では一切の盗賊被害に逢わなかったという。

 このように国中の悪党どもが、一遍に靡いていたのであるが、これも一遍が遊行先で多大な利益を与える存在であった、と認識されていたからではないだろうか。一遍自身は「捨て聖」の生き様を、徹底して貫いていた。一切の財を持たず遍歴していたから、見返りを受け取らなかった。にも関わらず、遊行先の興行を仕切る人々に多大な利益を及ぼす存在であったわけで、彼らにとってはまさしく「福の神」なのであった。

 先の記事で紹介した通り、一遍自身は一派を興さなかった。しかし彼の死後、弟子たちが時衆という宗派を立ち上げている。一遍が起こしたムーブメントを、そのまま放置するわけにはいかなかったのであろう。既に多くの人々が関わっており、多額の銭もまた動いていた。それで食べている人も多かったのである。

 しかし宗教というものは、権益面が強まると純粋性は廃れてしまう傾向にある。時衆もその限りではなく、室町末期になると世俗的かつ雑乱信仰に堕落してしまうのだ。京において、時衆の道場は複数建てられている。四条道場・金蓮寺、五条道場・新善光寺(別名御影堂)、六条道場・歓喜光寺、七条道場・金光寺などなど。

 戦国期の記録魔の公卿・山科言継が、このうちのひとつ、四条道場を訪れた際の記録が残っている。彼の日記から、一部を抜粋してみよう――「道場内において『一遍の名号』があったが、『恵心筆の阿弥陀』と『二十五菩薩三福一体』、そして『日蓮の釈迦』まで一緒に掛けられていた」と、やや呆れた様子で記している。

 時衆以外の異なる宗派のものも、みな見世物として展示されているわけで、特に日蓮宗は排他的かつ攻撃的な宗派で知られており、そもそも浄土系ですらないのだ。にも関わらず、それすら一緒にされてしまっている。理論を重視しなかったとはいえ、幾らなんでも節操がなさすぎる。

 同じように戦国期に、ポルトガル宣教師ビレラが本国に送った報告には「(時衆の)宿坊では僧と尼が同宿雑居し、妊娠堕胎も行われていた」とまである。多分にキリスト教的観点による誹謗中傷や、勘違いも含まれていると思われるので、相当割り引いて考える必要がある。しかし日本人が記した他の記録にも「境内には見世物小屋が立ち並び、遊女もいた」とあるのだ。

 拙著「京の印地打ち」では、四条道場前の通りを主人公が歩く際、寺の塀沿いに多くの立ち売りが並んでいる様子を描いているが、当時の四条道場は宗教的聖域というよりは、いわば新宿歌舞伎町のような歓楽街になっていたのである。

 時衆の信徒たちの中にもまた、ゴロツキのような輩がいた。室町期に以下のような訴えの記録が残っている――「時衆の踊り念仏を称する奴らが、数十人単位で村にやってきた。布施を要求し、やりたい放題。何晩も居座った挙句、村のものをいろいろ奪って去っていった」。

 このように押し売りに近い踊り念仏を行う、筋の悪い輩どもが頻出したらしい。こういうこともあったせいか、時衆は次第に廃れていくことになるのである。(続く)

 

「東山名所図」より。画面上部にある建物が、四条道場・金蓮寺。門前に牛車などが通っている。拙著で主人公が歩いたのが、この通りである。非人たちが集住していた「天部」は、この四条道場の通りを挟んだ向かい側にあった。画像でも確認できるが、四条通りとは竹垣で仕切られていて、その後ろからは竹藪が生い茂っていた。目隠しのためであろう。右手にある四条大橋の入り口にそびえているのは、祇園社の大鳥居である。四条大橋・大鳥居とも、1544年の洪水により流されているので、作中の時点(1555年)には存在しない。しかし1547年の京を描いたと思われる、上杉本「洛中洛外図」には「板橋の四条橋」が描かれていることから、代わりに質素な仮橋として登場させている。主人公はここで「三町礫の紀平次」に、礫の遠距離攻撃を食らうのである。(続く)