禅宗を日本に持ち帰った栄西。しかし実のところ、他の宗派の例に違わず、禅の教え自体は、奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたのである。例えば平安時代前期には、唐の禅僧・義空が皇太后・橘嘉智子に招かれて来日し、檀林寺で禅の講義が行われている。しかしながら当時の日本における禅への関心の低さに失望し、数年で唐へ帰国した、とある。
この時は、禅は日本に根付かなかった。しかし禅に関する知識は、先達たちが日本に持ち帰っていた各種の書籍に――散逸的な形ではあるが――残されていたのである。
これに着目した男がいた。平安末期の比叡山の天台僧侶、大日房能忍である。当時の延暦寺が所持していた仏教文献の数は日本一で、その中から能忍は禅に関する書籍をかたっぱしから読破したのである。そして書籍から得た知見をもとに禅を理解した彼は、摂津の三宝寺を拠点とし、その教えを広め始めたのだ。これを「達磨宗」と呼ぶ(近世以降は「日本達磨宗」と呼ばれるようになる)。
つまり彼には師はおらず、独学で一派を興したわけである。能忍の「達磨宗」は、中国禅よりローカル色の強い、いわば「日本オリジナル禅」といえるのだ。彼の教えは顕密の主流から弾き出された、聖僧(ひじりそう)たちに支持され、勢力を増していく。
しかしそもそも禅は、系統を極めて重視する教えである。北斗神拳のように一子相伝とはいわないまでも、師弟間のつながりを非常に大事にするのだ。あたかも燈火を移すかのように正統な教えが伝授されていくことから、これを「伝燈」と呼ぶ。初代はもちろん、お釈迦様である。
そういう意味では能忍は異能の人であった。教わるべき師もおらず、書籍の乱読だけで一派を興したわけだから、そこが彼の弱点であったのだ。鬼の首を取ったように、「能忍は偽物である」と責め立てる者たちがいたのである。
そこで彼は1189年、自らの弟子に手紙を持たせて中国に遣わし、禅僧として高名な阿育王寺の拙庵徳光(せつあんとっこう)に、己の教えが間違っていないかを問い合わせたのである。そして拙庵は遥か東の果て、未開の地において独学で禅を学び、その教えを広めようとしている能忍に感心し、印可を与えたのである。これを以てようやく能忍は、臨済宗に連なる正統な禅僧として認められたのであった。
さて一方、本場で禅を学んだ栄西であるが、能忍との関係性は如何なるものであったのだろう。能忍が達磨宗を立ち上げた時期は不明であるが、弟子を拙庵徳光に遣わしたのが1189年である。栄西の2度目の大陸渡航は1187年であるから、栄西が日本にいたころには、既に達磨宗はそれなりに有名であったはずである。
2度目の渡航前、栄西は能忍の達磨宗のことが気になっていたのではないだろうか?達磨宗の教えを聞きかじるくらいのことはした上で、中国に渡っていた可能性はある。そしてかの地で本格的に禅を学ぶことになるのである。
1191年、日本に帰ってきてから栄西は、禅を盛んにするべく九州で活動を始める。いわば共同戦線を張るという形で能忍は近畿、栄西は九州において、それぞれが禅の布教に力を入れることになるのだ。
禅の先駆者である能忍にしてみれば、頼もしい味方が増えたわけである。しかも師の系統は違えど、同じ臨済宗である。しかし仮にそう思っていたとしても、思いは裏切られることになる。事実、書簡のやりとりを重ねたようだが、栄西の能忍に対する評価は極めて低かったようだ。
2人が合わなかった最大の原因は、戒律に対する考え方だ。能忍は戒律にあまり重きを置いておらず、栄西にはそれが許せなかったのである。また栄西にしてみれば、己こそが臨済宗の正統な後継者、つまり「伝燈を継ぐもの」である、という思いもあったのであろう。
そんな確執はあったが、能忍の達磨宗は摂津において次第に勢力を伸ばしていく。
ところがこうした動きを快く思わない勢力がいた――おなじみ旧仏教の面々である。能忍はかねてから「禅は顕密を超えている」ことを表明していた。彼らにしてみれば特にお膝元の近畿において、そんなことを主張する異端が勢力を伸ばすのは看過できる問題ではなかったのである。1194年、延暦寺と興福寺による訴えを受け、朝廷より禅宗の停止が宣下された。
特に摂津に本拠を置く達磨宗は、顕密仏教に真っ向から喧嘩を売っていたわけだから、能忍に対する当たりはきつかった。これに耐え切れず、能忍は本拠を奈良・大和の妙楽寺に移してしまう。しかしその移転直後、能忍は死んでしまうのだ(弟子に殺されたという説もあるが、病死の可能性が高い)。
一方、栄西はというと前記事で紹介したように、彼の立ち位置は「兼修禅」であり、天台と密教、そして禅を同時並列的に認める立場である。そもそも彼は天台密教の修法に優れ、自ら「葉上流」という一派を興してもいるのだ。そこで彼は自ら真言宗の印信を受けるなどしてまで、顕密勢力との妥協を図るのである。
また1196年には「興禅護国論」という本を著している。 その中で栄西は「悪として造らざること無きの類」 「この人と共に語り同座すべからず」 と、改めて能忍の達磨宗を非難しているのだ。
要するに「臨済宗の禅の考え方は、異端の達磨宗とは違うよ」と宣言したのである。自ら顕密に近づき、更にそこから敵視されていた達磨宗とは違う、とはっきりさせることで、自派の安泰を図ったのである。
この後、栄西は関東に下向し、生まれたての鎌倉幕府に近づくことに成功する。北条政子の後ろ盾を得て、寿福寺の住職に就任。1202年には鎌倉2代将軍・源頼家の庇護を受け、叡山の縄張りである京に進出、建仁寺を建立するのである。
とはいえ初期の建仁寺は禅専修ではなく、「禅・天台・真言」の三宗兼学の寺であったのだが、これも栄西らしい。叡山に対し真っ向ケンカを売る手法は、栄西の採るところではなかったし、そもそも彼の考え方からしてみれば、別に矛盾のないことでもあったのだ。天台・密教と並ぶ兼学として認められたわけだから、禅宗にとって大いなる一歩であり、それで十分と考えていたのだろう。
※ここまで、内容に一部誤りがあったので、追加修正を9月19日に行いました。
栄西のような架け橋的存在でなければ、こうしたことは成しえなかっただろう。他宗に比して、臨済宗が顕密からの弾圧をあまり受けなかったのは、こうした彼の手腕によるものだ。
また新興勢力である武家の信仰は、未だ手を付けられていない空白地帯であったから、そこに真っ先に近づいていったことで、多くの信者を獲得することに成功したのであった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、盤石の姿勢で禅宗の振興に努めたのであった。(続く)
アニメーターとして長年活躍し漫画家に転身、これからという時に夭折してしまった天才漫画家、坂口尚の傑作。あの一休さんこと、一休宗純が主人公である。この漫画ほど禅の世界をうまく表現をした作品を、ブログ主は他に知らない。幼少の頃より才気あった一休は、長じて悩める青年となる。生きる意味とはなにか、仏の真の道はどこにあるのか。悩んで悩んで、悩みぬいた末に、一休が大悟する瞬間がくるのである。しかし物語はそれで終わりではない。引き続き新たな煩悩が一休を悩ませるのだ。物語終盤で老いた一休と、まだ壮年の蓮如との会話が繰り広げられるのだが、そこが中々に奥深いのである。ブログ主はなぜか数年に1回、この漫画を読み返してしまうのだ。なお坂口の他の代表作に、大戦中のユーゴスラビアを描いた「石の花」があるが、これも良作である。