根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑭ 臨済宗・栄西 求めたのは規律正しい生活スタイル「禅 with 戒」

 栄西は平安末期~鎌倉初期にかけて活躍した僧である。備中国吉備津神社の神官の家に生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、かの地で天台宗の教学と密教を学んでいる。しかし彼は、貴族仏教化していた叡山に嫌気がさしていたらしい。中国の正しい仏法を学んで日本の仏法の誤りを矯正しようと、1168年に大陸へと渡っている。栄西、このとき28歳であった。

 当時の中国は異民族である女親族の侵略により、長江より北は金、南は南宋が支配するところになっていた。目指す天台山は長江より南にあったため、南宋渡航する。天台山や阿育王山などに詣でた後に、天台宗の書籍60巻を入手、同年に帰国している。

 帰国してから、栄西密教の研究と修行にまい進する。この時期の栄西は、密教関係の著作を多く残しているのである。順調に出世もし、1175年には誓願寺落慶供養の阿闇梨となっている。

 しかし栄西は、やはり既存の天台密教に納得していなかったのである。どうも本覚思想に代表されるような、比叡山の「ぬるい環境」が許せなかったようだ。

 1187年、意を決して再び大陸へ。しかも大陸はあくまで中継地であって、今回栄西が目指したのはインドであった。300年前に高丘親王が目指したように、仏教が生誕した地・インドへ渡り、かの地で原典にあたってより本質的な仏教を学ばんとしたのである。この時、栄西はなんと47歳で、その求道の精神には頭が下がる。

 しかし結局、臨安府まで行ったもののインドへの渡航の許可は下りなかったのである。そこで栄西は、当時の中国で流行っていた禅宗に着目するのだ。

 禅宗とは何か。一言でいうと、「座禅」を修業の中心に据えて行う仏教集団のことである。その字面の通り「座」って「禅」を行うわけである。ではそもそも「禅」とは何かというと、元々は「精神を統一して真理を追究する」という意味のサンスクリット語を音訳した、「禅那」(ぜんな)の略なのである。

 ここでいう「真理を追究する」ということは、つまりは悟りを得るということを意味する。要するに「人が悟りを得る方法はただ一つであり、それは座禅することでしか成しえない」というのが禅宗の考え方なのである。

 これは単純だが、とても説得力がある論である。なぜならば実際に「お釈迦さまは、座禅することによって悟りを開いた」という、絶対的な証拠があるからである。他宗は小難しい理屈を色々と並べているが、そんなものに惑わされる必要はない。絶対的に正しいのは座禅であって、座禅なしでは悟ることはできない――これこそが禅宗が拠り所とし、誰も反論することができない、シンプルかつ最強の根本なのである。

 栄西はこの禅宗の一派、臨済宗天台山・万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)より学んでいる。インドまで渡航し、仏教の根本を捉えなおそうとしていた栄西である。理論ばかり先行し、現実と乖離したこれまでの仏教に比して、いわば原点に立ち返ろうという禅宗の教えこそ、彼が求めていたものであったのだ。1191年に虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国、栄西は禅の教えを新しいムーブメントとして広げ始めたのであった。

 なお栄西末法思想を奉ずる立場にいた。そんな末法の世であるからこそ、戒や禅が必要、というロジックなのである。末法の世には正法が途絶えるから、念仏を唱えるなどの易しい「易行」などが相応しいというのが、当時流行していた説なのであるが、栄西に言わせると「学識のない人、知恵のない人でも、座禅に専心すれば必ず仏道が成就できる」というわけである。

 こうしたロジックを以てして栄西は禅を説いたわけだが、実のところ彼は禅そのものに惹かれたというよりも、禅寺の「規律正しい生活スタイル」に、より大きな魅力を感じていたようだ。

 栄西は「興禅護国論」という書を著している。仏教学者の末木文美士氏によると、この書を分析すると内容的には禅そのものよりも、「戒」及び「禅宗の規範」に重きが置かれているとのことである。同じく仏教学者の平岡聡氏は、栄西のこうした姿勢を、「戒」との連続性において「禅」を説く「禅 with 戒」と表現している。

 つまり彼は戒律を復興することで、当時の腐敗した貴族仏教を再興しようとしたのである。同時期、南都六宗の中からも戒律復興運動の動きが出てきており、その動きと軌を一にしているのだ。そういう意味では、栄西の思想のスタイルは他の鎌倉新仏教、例えば法然とは異なるといえる。

 栄西の思想の変遷は、始めは天台密教、そこから戒、最終的には禅である。しかも前の思想を否定するのではなく、ある程度重複して同時進行しているのが特色である。境目が曖昧であるといってもいい。対して法然は、浄土宗の考え方を「自力」から「他力」へと、概念を根本から別物に変えてしまっている。またその教えも「専修」念仏であり、(いいか悪いかは別として)思想的には「純度が高い」といえる。

 こうした栄西の特徴を「架け橋的存在」と評する人もいる。古代と中世、日本と中国、密教と禅、比叡山仏教と鎌倉新仏教、そして何よりも戒と禅。異質なもの同士に橋を架け交流させることで、新たな化学反応を促させたのが栄西なのである。

 栄西の禅が「専修」ではなく、「兼修禅」と称される由縁である。次の記事では栄西の、よく言えば「架け橋」、悪く言えば「節操のなさ」が分かるエピソードを紹介しよう。(続く)

 

Wikiより転載、絹本著色・建仁寺両足院蔵「明菴栄西像」。栄西は権力に近づくのに、巧みな僧でもあった。詳細は次の記事で述べるが、成立間もない鎌倉幕府に近づいたところなど、実に機を見るに敏である。こうした経緯があって、臨済宗は身分の高い武家の間で支持を得ることに成功するのである。また彼は喫茶を日本に導入した男でもある。宋で入手した茶の種を持ち帰って、肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作った。やがて戦国期には「茶道」という禅的要素を多分に含んだ芸術に昇華されるのだが、この茶道文化の主な担い手は武家であった。これは武家社会において臨済宗が広く受け入れられていたからであり、全ては栄西鎌倉幕府に近づいたことから始まっているのだ。