根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(中)

 円珍は円載との出会いを「在唐巡礼記」という書物に書き残している。この書は現存しないのだが、「在唐巡礼記」を要約した「行歴抄」という書物が後世になって編纂されたおかげで、2人の出会いはどんなものであったのかが分かるのだ。当該部分に手を加えて要約してみよう。

 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい――

 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。しかし決して弾むわけではない。そのうち話の流れで円珍が公式の身分ではなく、私的な入唐求僧の身分で渡唐したことを知った円載は、こう言い放ったのである。

 ――それではダメだ。本国の太政官に公文書を送って、天皇より勅令を改めて下してもらい、使者に持ってきてもらいなさい――

 この一言は円珍にとっては、酷くプライドを傷つけられる言葉であった。「お前は自分(円載)と違って、天皇から勅牒を貰った、れっきとした留学生でないのだな」と言われたに等しいからだ。更に「日本から大金(5000両)持ってきたというが、本当か?」と聞いてきたが、これには円珍は言葉を濁して答えなかった、とある。

 次の日、改めて円珍は日本から持参した「円載を伝燈大法師位に叙する」勅牒を円載に渡した。円載はこれを喜んで受け取った、とある。これを入手するにあたっては、円珍もそれなりに骨を折ったのである。更に会話を続けていると、思い出してきたのか徐々に日本語を語り始めたではないか。

 そこで後日、かつて天台山から返ってきた「唐決」(前記事で触れた、「天台教義に関する質問状」のこと。この回答を円載は843年に弟子に託して日本に送っている)についての話をしたところ、これには全く興をそそられない様子。天台教義について、全く語ることができないのだ。これには円珍はあきれ果て、二度と教義について語ることはしなかった、とある。

 1ヵ月余り、国清寺に滞在した円載は越州へと帰っていった。円載は還俗した際にそこで妻帯し、子まで成していたのである。「会昌の廃仏」以降は、里に下りて蚕を飼って養蚕業に従事するなど、半僧半俗のような形で暮らしていたようだ。

 円載が去った後、国清寺にて円珍は彼に関する衝撃的なスキャンダルを知る。それはなんと円載がかつて尼僧を強姦したことがある、というものであった。更に円載が国清寺にいたときに、日本から円修という天台僧が留学しに来たことがあるのだが(843年)、その円修に私生活での堕落ぶりを指摘され、これを逆恨みして毒殺(!)まで企てた、というのである。

 6か月後に円珍は円載の住む越州へと向かう。そこで落ち合い、共に密教の灌頂を授かるべく、長安へと向かったのである。この旅の途中、潼関という場所で2人の間で深刻な諍いが発生している。著書で円珍はこう記している。

 ――潼関で宿泊した夜、円載は自分を口汚く罵ってきた。あらゆることを侮辱し、罵倒したのである。相手にするのも値しないので、目を瞑り口を塞ぐことでその場を何とか乗り切った――

 ただし円珍は、この諍いの原因が何であったのかは記していない。次の日からまた何事もなかったかのように旅を続け、長安に到着する。長安では2人揃って、密教の本場・青龍寺にて胎蔵界の学法灌頂を授かっている。ただこの青龍寺滞在時、円載による円珍への酷い中傷があり、人間関係でひどい被害を被った旨の記載がある。こうした卑劣な口撃に対し、円珍は一切反論することなく黙って耐えた、とある。

 この後、円珍は円載と別れ、858年に日本に帰る。そして上記の内容をつぶさに記した。この円珍の記録によって、円載の破戒ぶりが日本に知れ渡ったのである。

 だが果たして、円珍のこれら円載についての一連の記述は、信用できるものなのだろうか?佐伯有清氏はその著書「悲運の遣唐使」において、円載の弁護を試みている。佐伯氏によると、円珍の記述にはいくつかの矛盾が見られ、また伝えるべき情報も自分にとって都合のいいように取捨選択・編集されているという。

 円載の破戒僧ぶりを示すエピソードとして、主なものを以下にあげてみた。

 

1・尼僧の強姦疑惑

2・円修の暗殺未遂疑惑

3・天台の教義を悉く忘れてしまったこと

4・円珍に対する中傷。行跡に乱れがあること

5・金に汚いこと

 

 1と2は互いにリンクした話であるが、まずは尼僧の強姦疑惑から。円珍に会ったとき、円載は妻帯していた。「会昌の廃仏」の際に還俗したわけだが、その時一緒に還俗した同寺の尼僧と所帯を持った可能性が高いのである。そうした話が前提にあって「そういえば、あの2人は寺にいる頃から怪しかったな」というレベルの噂話を知った円珍が殊更に拡大し、「強姦」という話に膨らませたのではないだろうか。

 またこうした円載の数々の悪業は、843年に渡唐してきた円修が天台山に来た際に知ったスキャンダルである、ということになっている。たびたび寺を抜け出す円載を見て、円修は嘆き悲しんだという。

 しかし帰国した後の円修の報告には、こうした円載の破戒ぶりは一切記録されていない。ここまで堕落しているのであるならば、さすがに何らかの形で(オブラートに包んだとしても)報告がされているはずではないだろうか。「悪事は千里を走る」というから、噂レベルのものであったとしても、こうした話は皆に知れ渡っていたはずである。

 しかも円珍は、円修その人に会っているはずなのだ。円修が日本に帰ってきたのは844年、円珍の渡唐は853年である。円珍は船に乗る前に、数少ない渡唐経験者である円修から、唐における経験談を聞きに行っていないはずはないのだ。であるならば、円修は何らかの形で円載に関する警告を与えたはずだ。それすらなかったのは不自然なのである。 

 暗殺疑惑に関してもそうである。この経緯を詳しく述べると、帰国するために寺を去った円修に対し円載が暗殺者を雇い、毒薬を持たせて後を追わせたが、追いつけずに未遂に終わった、ということらしい。だが、そんな話が噂レベルでも天台山で囁かれていたとするならば、以降はとても寺に出入りできないはずだ。

 中国側の彼の評判を見てみよう。実は、唐における円載の僧としての評判は、極めて高いのである。長安入りを果たした彼は、そこで唐代の一流文人たちと交流し、宮中に召されて講義を献上し、なんと天子より僧侶最高の証とされる紫衣を賜っている。尼僧を犯し、兄弟弟子の殺害を企むような噂があった僧に、そんなことが可能なのだろうか。877年に彼が長安を去る際には、有名な詩人や文化人らが、数多くの送別の詩を送っている。その詩の内容を見る限りでは、とても円珍の語る円載とは同一人物とは思えないのである。

 次に3の「天台の教義を忘れてしまった」について。これに関する佐伯氏の推論を紹介したい。まず最澄は、日本に持ち帰った天台宗を禅・律・密教とミックスさせ(四宗融合)、日本独自の「シン・天台宗」を確立しようとしたことは、以前の記事で述べた通り。

 

中国の天台宗そのままでは、日本には受け入れられないと悟った最澄は、教義のアップデート&ローカライズを試みた。だが決定的なピースが欠けており、その生前には完成させることはできなかった。その後、渡唐した円仁が欠落分を補完し、遅れて渡唐した円珍が完成させた。これらの経緯の詳細は、上記からはじまる一連の記事を参照。

 

 「四宗融合」する際には、各種の教義を再定義する必要があった。接着剤のようにただくっつけただけでは、互いの教義に矛盾が出てしまうからである。かつて円載が本場の天台山に持っていった質問状は、これらに関する疑問を記したものなのである。前記事で記した通り、円載は弟子に回答を持たせて日本に送ったわけであるが、この時返ってきた「唐決」は延暦寺においては到底、服することのできない内容であったのだ。

 それはそうである。本場の中国の天台宗にしてみれば、「四宗融合」した日本の天台宗の教えは、本来のものとは既に違ってしまっているわけで、納得いく答えが得られるはずもないのだ。円珍はこの「唐決」について、「唐朝の老宿は、醍醐を生蘇に貶し(チーズをヨーグルトにしたようなもの)」とけなしている。

 

中国浙江省天台県にある、天台山・国清寺。575年に智顗(ちぎ)がここで天台宗を開山した。最澄天台宗はここで学んだものがベースになっている。延暦寺が円載に託した質問状は「密教経典である『大毘盧遮那経』は『五時四教』のどこに当てはまるのか?」というものであった。これに対する回答をしたのは、禅林寺座主・広修と、国清寺座主・維蠲(ゆいけん)である。その「唐決」の内容は、「釈迦一代の説教の中で、『大毘盧遮那経』は第三の方等部の部類に分類される」というものであった。これは当時の延暦寺からすると、本来あって欲しかった場所ではないところに分類されてしまったようで、納得のいく答えではなかったのであった。本家本元の天台宗には密教は内包されていないわけだから、密教の重要経典である『大毘盧遮那経』の重要性はそこまででもなかったのである。

 

 或いは円載も、始めは同じ思いだったかもしれない。だが唐において天台山で暮らすうち、比叡山天台宗のことを客観的に見る余裕ができたのではないだろうか。唐の天台山から眺めてみると最澄天台宗は、見方によっては東夷が勝手に改悪した「異端の教え」なのである。

 佐伯氏はこう推測している――そうしたことを既に理解し、達観していた円載の元に、意気込んだ円珍がやってきた。(円珍の記述と時系列が若干異なるが)おそらく円珍は、出会うや否や「唐決」についての自らの見解をまくしたてた。円載はうんざりしたのではないだろうか。そこで日本語が分からないふりをして、聞き流した――如何にもありそうな話である。

 長くなってしまった・・・次回、最後の4と5についてのスキャンダルの疑惑の解明と、そして2人の仲が決定的に悪くなってしまった事件について述べる。(続く)