根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(上)

 遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか?

 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。

 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧などの資格で選ばれた僧は7名。比率に換算すると1%強であるが、これには僧の従者は含まれていない。各々の僧につく従者もまた僧であったパターンが多く、またそうでなくとも渡航先の唐で得度するものもいたから、これを含めて考えたほうがいいかもしれない。僧1名につき従者2~3名付くのがスタンダードであったようだから、第19回遣唐使には合計20名ほどの僧が参加したことになる。比率で考えると3%強ほどであろうか?

 かなり強引だが、この比率を遣唐使全体に当てはめてみよう。渡航に成功した遣唐使を15回と数えて、前半6回で45名、後半9回で162人、遣唐使で大陸に渡った僧の合計は、多めに考えて200人前後といったところであろうか。彼らの名の殆どは記録に残っていないが、それぞれの人生はそれだけで1冊の本が書けるほど、ドラマティックなものであったに違いない。

 その中でも、大陸にて数奇な人生を送った僧がいる。その名を円載という。

 円載は円仁と同じく、第19回遣唐使に選ばれた天台宗の僧であった。遣唐使節としての円仁の資格は短期留学である「請益僧」としてであるが、円載は長期留学の「留学僧」としての資格であった。これを以てして、円載の方が円仁よりも立場的には上であったとはいえないが、相当に期待されていた僧であったことが分かる。

 にも関わらず、円載は円仁のように「入唐八家」に選ばれていない。それどころか、彼はとある人から「破戒僧」の烙印を押されるなど、口を極めて罵られているのだ。果たして彼は、大陸でどんな人生を送ったのであろうか。この記事では、円載の数奇な生涯を追ってみたいと思う。

 円載の出自は不明だが、それ故に名家の出自ではなかっただろうと思われる。最澄が最晩年の時にその門下となっている。その後、12年の修行を終え「年分度限者」として得度したのは、最澄の後継であった円澄の下であろうと思われる。この頃、彼と机を並べて共に学んだ後輩に、遅れて入唐することになる「入唐八家」のひとり、円珍がいる。

 円載が大陸に渡ったのは、30歳前後の頃と思われる。未来の天台宗を担って立つ、期待のホープとして選ばれたわけだから、その学識は相当なものであっただろう。仏典のみならず、儒書にも通暁していたと伝えられている。

 先の記事でも少し触れたが、838年の上陸の際には船が座礁し、円仁ともども死ぬような思いを味わっている。そんな目にあってまで入唐したはいいけれど、その地に半年間も止め置かれてしまう。最終的にはようやく円載の天台山行きの許可は下りたのだが、短期留学生としての資格であった円仁には、許可が下りなかった。円仁は仕方なく、自身が天台山に持っていくはずだった、書簡や質問状を円載に託している。ここで2人の道は分かれたが、別離の際は互いに「悼み、悲しんだ」とある。

 円載は一路、天台山へ。839年3月のことである。無事、延暦寺や円仁から託された書簡や物品、そして最も重要な「天台教義に関する質問状」などを送り届けている。天台山で円載は、国清寺の中に「日本新堂」と名付けた庵を構え、そこで多くの経典の写経にいそしんだことが、現地の記録からも分かっている。

 4年後の843年に、彼は従者僧である仁好と順昌の2人を、日本への帰国船に乗せている。先に入手した「天台教義に関する質問状」への返答(これを「唐決」と呼ぶ)や、彼自身が写経した経典などを持たせて、帰国させたのであった。海外研修先から本国に送る、途中報告のようなものだろうか。この時、朝廷から追加の留学費用として金100両を下賜されており、仁好が円載の下へ持って帰ったようだ。

 しかしこの前年の842年頃から、道教に傾倒していた武宗による仏教排撃運動、「会昌の廃仏」が始まっている。排撃は年を経るごとに激しさを増していき、845年に入るとピークと達し、なんと唐において全ての僧の還俗命令(拒否したら死刑)が出されている。

 大陸にいた円載、そして円仁も(過去の記事でも述べたが、彼は滞在許可が下りなかったにも関わらず、「抜け参り」して五行山や長安に滞在していた)仕方なく還俗している。幸いにも武宗は翌846年に、怪しいクスリのやり過ぎが原因で死亡しているから、これ以上の迫害はなかったのであるが、中国仏教界は大混乱に陥ってしまった。なにしろ4600の寺が廃止され、還俗させられた僧尼は26万人、寺の財産なども殆どが没収されてしまったから、みな立ち行かなくなってしまったのである。

 

唐の武宗(在位840~846)。「会昌の廃仏」を行った武宗が道教に傾倒していたのは事実であるが、仏教を排撃したのにはそれなりの理由があった。当時の寺院は大規模な荘園を所有していながら、税の対象外とされるなど非常に優遇されていた。寺院の多くを廃した結果、寺の奴婢だけで15万人(!)が国家の戸籍に編入されたと記録されている。また唐王朝は銅の不足にも悩まされていたから、寺院から仏像や鐘などを供出させ、それから銅銭を鋳造するという目的もあった。仏教のみならず、ネストリウス派キリスト教景教)やマニ教なども排撃されているが、これらは皆、外来宗教である。対するに中国由来の道教は優遇されているから、文化的ナショナリズムの側面もあったのかもしれない。武宗は全身が腫れあがって早死にしているが、これは怪しげな仙丹を服用した結果だとみられている。道教の仙丹には丹砂(硫化水銀)のみならず、人体に害を与える様々な原料が多用されていたから、これを服用するとみな揃って命を縮めたのであった。

 

 円仁はこれを機に帰国したが、円載がこの時期どこで何をしていたか、よく分かっていない。こうした大混乱の中で、異国の人が生き延びるのは困難なことであったに違いない。円載は847年に日本に手紙を送っている。その手紙は、否応なく還俗させられたこと、それでもまだ仏道に志を持っていること、そしてあともう少しだけ留学を続けたい、という旨の内容であった。この願いに対して朝廷は「その心がけ良し」として、滞在費として更に追加の黄金100両を遣わした、とある。

 次に彼の消息が分かるのは、853年のことである。「入唐八家」のひとり、のちに天台宗の教義を完成させることになる、あの円珍が入唐したのである。無事上陸し、天台山に向かう彼の下に、なんと円載から「天台山で会おう」との手紙が届いたのだ。かつて机を並べ、共に学んだ尊敬すべき先輩に、17年ぶりに会える!円珍の胸は期待と喜びで一杯となった。

 2人が再会したのは、853年12月14日のことである。場所は天台山・国清寺の門前。そこで円載に会った円珍は、驚愕することになるのであった。(続く)