根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 親鸞 教団によって脚色された?その人生

 「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。

 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で1204年に法然比叡山から訴えを起こされたとき、弟子たちを激しく諫めた、と書いた。この時に法然が弟子たちに示したのが、「七か条制戒」である。

 内容としては「他の仏や菩薩を誹謗するな、無知にも関わらず知識のある人たちに対して諍いを吹っ掛けるな、この戒めに背くものは門人ではない」などといった、門人たちに対して厳しく指導するものだ。内容から法然自身は穏健派であったのだが、フォロワーが過激化していたことが推測できて興味深い。

 さてこの「七か条制戒」であるが、最後に弟子たちが署名している。全体で190名の弟子らの名が記されているが、まず筆頭弟子であった信空、続いて隆寛ら高弟の名が続く。親鸞(当時の名は悼空)の名は、ずっと下って87番目である。89番目が先の記事でも紹介した、あの直情家の困ったちゃん・熊谷直実(蓮生)である。まだ若年であったこともあるだろうが、この時点で親鸞の順位はかなり低かったことがわかる。

 親鸞は晩年に自ら「西方指南抄」という書物を記しており、その中にも「七か条制戒」が出てくるのであるが、そこではオリジナル版よりも大幅に人名が減っており(190人→22人)、それに伴い親鸞の順番も21番目になっているなど、自らの順列を大幅にランクアップさせている。

 また親鸞は「自分は『選択本願念仏集』の写経を許された、数少ない法然の高弟のひとりだ」と記している。しかし浄土宗サイドの記録には「筆写を許された人」として、親鸞の名は残っていないのである。

 更に疑問なのが、親鸞流罪になったという件である。師である法然流罪となったとき、連座して高弟らも各所に配流となっている。この時に親鸞も越後に行っているが、これは果たして本当に配流であったのかどうか、微妙らしいのである。

 詳しくは対談本を読んでいただきたいのだが、この越後行きについて、親鸞自身もとても曖昧な書き方をしているようだ。越後に行ったのは確かなのだが、実は自らの意志で行ったのではないか?というのが島田氏の意見なのである。

 対談相手の本郷氏曰く「自分の所属している組織のトップが検挙され、これはヤバいということで、ほとぼりが冷めるまで身柄をかわそうとして、越後の有力氏族の娘であった、恵信尼の伝手で身を潜めた」可能性がある、いうわけである。

 

龍谷大学大宮図書館蔵「恵信尼絵像」。恵信尼は、法然の妻である。越後への配流直前に京で娶ったようだが、実は越後に所領を持つ三善氏の娘で、裕福かつ高い教養を持った女性であった。1921年に、彼女が娘に送った手紙10通が西本願寺の宝物庫から発見され、より実像に近い親鸞の姿が分かるようになった。先の記事で少し触れた、風邪をひいた際につい念仏を唱えてしまったエピソードなどは、この手紙から判明したものである。ブログ主などは、親鸞のこういう面に親しみを感じてしまうのだが。なお親鸞は同時代の他の史料には殆ど名前が出てこないので、明治大正期にはその実在を疑う向きすらあった。そういう意味でも、恵信尼の手紙は大発見だったのである。

 

 さてこの親鸞が妻帯していた件だが、実は当時は僧が妻帯すること自体は、別段珍しいことでもなかった。特に上級僧はみな貴族階級に属していたから、その多くは当たり前のように妻帯していたし、下級僧もまた然りであった。親鸞が新しかったのは「隠さず、堂々と妻帯した」という点においてだったのである。

 これに対する後世の評価は「戒律の厳しいなかで、親鸞はそうした規範をあえて自ら乗り越えたのだ」というものである。如何にも強い目的と意志があって、わざと妻帯したような捉え方をしている。

 しかし親鸞自身は妻帯したことに対して、特に言い訳をしていないし、逆にこれを以て高みに上がった、などとも記していないのである。そこまで気負っておらず、自然な形で妻帯したということなのか、それとも少し――世間体的に――恥ずかしく思う気持ちも、どこかにあったのだろうか?個人的には7:3くらいの割合で、2つの気持ちがミックスされていたのでは?と思うものである。

 いずれにせよ、組織のトップが堂々と妻帯し、子を成したことで(6~7人)極めて特異な教団構造がつくられたのである。以降、教団のトップには親鸞の子孫が継いでいくことになったからだ。こんな教団は日本では浄土真宗、つまり本願寺のみなのである。

 この本願寺という組織は、室町期に大いに栄えることになる。8代目に、蓮如という傑出したカリスマが登場したことで、教団が瞬く間に巨大化したのである。後世に編集された親鸞の伝記には、こうした組織による編集作業の手が入っているようだ。

 ただ、これは何も本願寺に限ったことではない。正当性を図るため、後年になって教えの再解釈や歴史の再編集を行うのは、極めて当たり前のことであって、ほとんど全ての組織に当てはまる話でもある。

 思うに、史的な再解釈と実像とのギャップは、その組織が大きくなればなるほど強くなっていくものなのだろう。特に本願寺は、戦国期にはそこらの小大名なぞ、及びもつかぬほどの権力を有していたわけだから、そうした傾向が強く見られるのも仕方のないことだろう。(続く)

 

宗教学者・島田裕克已氏と、中世史学者・本郷和人氏による対談形式の本。島田氏は、かつてオウム真理教を擁護したことでバッシングされた経歴を持つ。かたや本郷氏は、定型からの逸脱を厭わない(とはいえ突飛なことは主張しない)ことで有名な歴史学者で、歯に衣着せぬ2人が鎌倉新仏教を語っているわけだから、刺激的かつ面白い内容にならないはずがない。しかしながら両名の積み上げた知識量もまた半端なく、例えば「神社の社殿の建築の始まりは、早くとも平安末期からで、それまでは存在しなかった」など知らないことがたくさん書いてあって、非常に勉強になった(あの有名な、出雲大社で発掘された巨大な柱跡も、実は鎌倉期のものである)。