根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑤ 法然の専修念仏(上) コペルニクス的発想転回「ただひたすらに念仏を唱える」 

 法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧である。齢13にして比叡山に登り、その優秀さから将来を嘱望されていたが、18歳の時に比叡山黒谷別所に居を移してしまう。

 叡山内には隠者的生活を営むコミュニティがいくつかあり(かつて源信がいた横川もそうである)、この黒谷もそうした性質を持つ場所であった。つまり山内の出世レースから下りて、真摯に求道を志すことにしたのである。この時点で彼は、叡山の主流の考え方であった天台本覚思想と決別していることが分かる。

 以来、法然はひたすら学問に励む。万巻の経典を読んで、読んで、読みまくった。そして43歳のときに「観無量寿経」を読み、これまで蓄えた知見を基礎とし、遂にひとつの答えに至ったのである。

 それが「念仏を南無阿弥陀仏と称えれば、善悪・老若男女・貧富の別なく、臨終時には阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ往生することができる」というものである。

 法然は思考を重ねた結果、上記の結論に至ったわけだが、彼はこの教義の最初期のカタチを、経典などの書物をひたすら読むことによって確立させたとみられている。もちろん、他の人と知的交流がなかったわけではないが、どちらかというと喧々諤々と活発に議論をするタイプというよりは、書物を読んで疑問に思った事柄をピックアップして人に教えを乞う、というタイプだったようだ。

 思想というものはある日突然閃いて、そこで完成するわけではない。法然の専修念仏の教えも、時間をかけて構築されたものだ。1175年に上記のような宗教的回心を得た彼は、洛西にある広谷の円照の元を訪れ、そこに活動拠点を移すことにする。

 この円照という僧であるが、彼の父は鳥羽上皇の寵臣・信西藤原通憲)であり、「保元の乱」の際は後白河天皇側として勝利に貢献している。だが続く「平治の乱」で信西は殺害され、一族も失脚してしまう。三男であった是憲は流罪の後に出家して、称名念仏の行者・円照になっていたのである。

 この円照、法然との出会いから2年後に往生してしまうのだが、のち法然が「浄土の教えと円照との出会いは、人として生まれたこの世の思い出だ」とまで語っているほど、彼に影響を与えた人物なのである。おそらく法然は円照と対話をすることで、書物で得た己の知見を整理・フィードバックし、その教義を確立させていったものとみられている。

 法然の専修念仏の教えは次第に成熟し、評判を呼ぶようになってきた。1186年には比叡山・大原にて行われた討論会で、極楽浄土の教えについて語り、並み居る学僧らを感心させている。同年、時の摂政である九条兼実法然の教えに帰依し、その保護者となっている。そして1198年には、彼の教えの集大成ともいえる「選択本願念仏集」が撰述されたのである。

 彼の思想はどのようなものであったのだろうか。詳しく解説してみよう。

 まず法然の教えは、浄土思想+末法思想に基づいたものである。つまり徹底した現実否定なのである。如何なる者もこの世に生を受けては死を免れない。そして今は末法の世であるから、どんなに優れた人であっても現世においては修行しての成仏は不可能、と考えるのだ。その代わりとして、浄土への往生を勧めたのである。(なお、この時点では成仏していなくてもいい。浄土ではそこにいるだけで勝手に修業が捗る、という設定なので、往生先の浄土で成仏すればいいのである)。これが彼の思想の土台にある。

 では次に方法論に移ろう。どのようにすれば、浄土に往生できるのだろうか?その方法はただひとつ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればいいのである。法然によると、ここでいう称名念仏には観想を伴わなくてもよい。心を込めて唱えるだけでいいのである。

 「観想へ至る称名」から「ただひたすら称名する」――つまりこれこそが、現代の多くの人が法事の場などで、今も行っている「専修念仏」の始まりなのである。法然が「専修念仏の祖」と言われている由縁だ。

 そして法然は「称名念仏は、自らの意志(自力)で行うものではない」とした。実はこのあたり、とても哲学的で分かりづらい。以下ブログ主が理解したところを記してみる――もし間違っていたら、ご教示いただきたい。

 これまで人は、往生を望んで念仏を唱えていた。つまり「救われたい、だから努力して念仏を唱えていた」わけで、その一番わかりやすい例が、念仏を唱えた回数なわけだ。唱えれば唱えるほど功徳があるわけで、だからこそ良忍の「融通念仏」、つまり「1人が唱える念仏も皆で一緒に唱えると、その人数分だけ唱えたことになる」のような運動が大流行したのである。

 だが法然は、このように主体的に自ら仏に働きかけて往生せん、とする「自力」の行為を是としなかった。自らの思想を記した「選択本願念仏集」によると、念仏は阿弥陀仏が「選択」した行であり、人が「選択」したものではない。

 だから念仏を唱える際は、阿弥陀仏の絶対性に全てを委ねて唱えよ、これこそが「他力」の念仏である、としたのである。

 つまり100%、阿弥陀仏の力で往生する、と考えるのである。そこに自分の努力や意志は一切関係ない。阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えた瞬間「すでに往生は約束されている」と考えるのだ。ただポイントとして信心するだけではダメで、行為として「念仏を唱える」必要はあるのだ。

 ただここで唱える念仏は、いわば浄土へ至るために渡された鍵のようなもので、ただ開錠して扉を開ければいいだけである。そこに自らの意志や努力は必要ないのである。

 ・・・どうもうまく説明できない。これに関して、現代の浄土教学の学僧・安達俊英氏がとても分かりやすい例えを示しているので、それを紹介してみよう。

 ――我々が今立っている地面を、迷いの世界とする。その前に高さ1mの机があり、その上が極楽浄土とする。ジャンプして机の上に上がりたいが、力が足らなくて30cmほどしか飛び上がれない。ところが机の上には阿弥陀仏がいて、手を差し伸べてくれている。これに気付いて手を伸ばせば、阿弥陀仏はその手を握り、極楽浄土へと引き上げてくれるのである。

 これまでの浄土思想では、机に登ろうとするならば「少しは自分の力でジャンプしなさいよ」という考えである。阿弥陀仏に救われるならば、人間の努力、つまり自力が少しは必要なわけである。

 しかし法然はそう考えない。自分の力でジャンプしたら手がブレて、逆に阿弥陀仏の手がつかみにくくなる。だからジャンプする(努力する)必要はない。阿弥陀仏に引き上げてもらう方が、安全なのである。阿弥陀仏に全て、わが身をお任せしてしまうのである。これがつまり他力である。ただし手を差し伸べる必要はある。手を差し伸べるとは信心して念仏を唱える、ということである。それ以外のことは不要である――

 これが法然の教えの核心であり、これまでとは全く違う発想なのである。自力は人間中心の発想であるが、他力は仏中心の発想である。人がどんなに努力しようと、どんなに足掻こうと関係ないのだ。

 これは浄土思想のコペルニクス的転回であり、天動説から地動説への変化にも等しい、考え方の主体を根本から変えてしまう教義なのであった。

 この専修念仏、そして他力という考え方が、以降の仏教をどういう風に変えてしまったのか、それを次回以降に説明しよう。(続く)

 

知恩院蔵「披講の御影(隆信御影)」。専修念仏という、新しい教えを説いた法然であったが、自身は生涯寺を持たず、宗派を興すこともしなかった。しかし彼の影響力は絶大で、彼の教えを受け継いだ者たちが、数多くの宗派を興すことになるのである。こうした弟子たちとして親鸞や弁長・証空など、鎌倉新仏教の諸宗派の開祖たちの名が挙げられる。