根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

 さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。

 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。

 覚鑁高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。

 記録によると、このとき建てられた伝法院の堂宇の大きさは、わずか1間(1.8m)四方しかなかった、とある。覚鑁はまず手始めにここを改革派の拠点として、己の教学の研究を進めると共に、東密内部に広げ始めたのである。

 小さい堂宇とはいえ、組織を運営するには銭がかかる。先立つものはやはり銭、人を集めて何か行うには、費用面でのバックアップが必須なのだ。実は覚鑁は、1126年頃から財源確保のための運動を始めているのが確認できる。それが功を奏し、29年には石手荘という荘園を賜っているのだ。翌30年の伝法院の設立には、こうした財政面の裏づけあってのことだったのが分かる。

 しかし覚鑁は、この時点で一介の僧でしかない。さりとて権門出身でもない、庶民出身の彼がどのようにして、荘園を獲得することができたのだろうか?

 当時は平安後期、院政絶頂期である。この時に院政をひいていたのは、鳥羽上皇だ。最高権力者である鳥羽上皇に近づいた覚鑁は、持ち前の知性とカリスマ性でたちまち上皇を魅了したのであった。

 当時の貴族社会において、浄土思想と末法思想は大変流行していた。鳥羽上皇は鳥羽に居を定め、そこに自らの御殿である「鳥羽殿」を建てたが、内部に幾つか仏堂を建立している。そのうちのひとつ「安楽寿院」に今も伝えられている本尊は、やはり当時流行りの阿弥陀仏であった。

 浄土思想を取り入れ、アップデートされた覚鑁真言の教えは、鳥羽上皇の信仰心にジャストミートしたのではないだろうか。上皇覚鑁を「聖人」と呼んで、深く帰依した。当時の仏教界上層部は権門出身の僧で占められていたから、無冠の僧であった覚鑁上皇の帰依を受けるのは、前代未聞のことであった。

 

鳥羽上皇院政期、鳥羽には鳥羽御殿があり、短期間であったが政治・経済の中心地であった。京の南に位置する、鳥羽についての記事はこちらを参照。

 

 そうした経緯があって、伝法院の設立・運営に至ったわけだ。だがこれは手始めにすぎなかった。続いてなんと、鳥羽上皇自身がスポンサーとなって、高野山上に新たに御願寺が建立されることになったのである。その名もズバリ「大伝法院(前にあった伝法院と区別するためにこう呼ばれる。)」、院主はもちろん覚鑁だ。

 1131年10月17日に、高野山上で行われた落慶法要には鳥羽上皇行幸があり、多くの公家たちが参加しているのが確認できる。出席者は前関白・藤原忠実、関白・藤原忠通など錚々たるメンバーであったが、それだけでなく新堂落慶の供養導師は、東寺のトップである東寺一長者・信勝法橋が勤めている(彼は仁和寺覚鑁の兄弟弟子であった)。如何に覚鑁の影響力が大きかったか分かる。また大伝法院の設立に前後して、覚鑁鳥羽上皇から大伝法院領として、更に4か所もの荘園と、密厳院(こちらも覚鑁が設立した子院)領として1か所の荘園を正式に寄進されている。

 こうして時の最高権力者・鳥羽上皇から、物心両面でのバックアップを受けた覚鑁は、勢いのまま突っ走る。いわば覚鑁派の本拠地といえる、大伝法院に属する僧はあっという間に増え、数年後には学僧・行人ら合わせて201人の数が確認できるまで、その規模は拡大するのだ。

 

高木徳郎氏の論文「大伝法院の成立と展開」を元に、ブログ主が作成したイメージ図。荘園の境目は、そこまで正確なものではない。地図にあるように、覚鑁が大伝法院領として賜った荘園のうち、4つは隣接していた。うち弘田荘には、古くから「豊福寺」という寺があったが、覚鑁はここを大伝法院の末寺とした。賜った当初は小さな寺でしかなかった豊福寺だが、ここがのち根来寺として発展していくことになるのだ。なお豊福寺は、葛城の峰を法華経に見立て山中を巡る、「葛城信仰」という山岳修行の第34番目の行場であった。葛城信仰はのち、山伏たちによる修験道の場として発展していくことになる。なお根来寺における修験道の管轄は、学僧ではなく行人たちにあったようである。

 

 そして1134年、遂にその時が来た。覚鑁上皇からの院宣を受け、高野山を統べる金剛峯寺の座主に就任したのだ。あり得ないほどのスピード出世である。覚鑁この時、知力も体力も男盛りの40歳であった。(続く)