前記事では典型的な「狭義の非人」と称される「宿非人」を取り上げた。では「広義の非人」とは何か。細川涼一氏による「中世非人に関する二、三の論点」という論文がよくまとまっているので、この内容を紹介してみようと思う。
まずは京における非人の数について。1302年のことになるが、後深草法皇の死去に伴い、各種法要が行われている。この法事の際に、京にいる非人に対して非人施行(1人10文ずつ)と温室(入浴療法)料が施された。そして当時の記録に、その数と集住地が残されているのである。下記がその内訳である。まずはAグループから。
・清水坂―――1000人
・蓮台野―――170人
・東悲田院――150人
・散在――――376人
上記を合わせて計1696人をAグループとする。これらとは別にBグループが存在する。
・獄舎――――71人
・大籠――――142人
・散所――――118人
Bグループは計331人である。AとBを合わせると、計2027人である。数に応じて銭が配られているので、もしかしたら数は水増しされているかもしれないが、実数とそれほどかけ離れてはいないものと思われる。これにより1302年時点で、京には2000人強の「非人」と呼ばれる人たちがいたことが分かるのだ。なお上記に河原者は含まれていないところを見ると、やはり別物として扱われていたということだろう。
次に内訳をもう少し細かく見てみよう。まずはAグループから。「清水坂」と「蓮台野」は、非人身分の中心である「宿非人」らを指す。前記事で紹介した黒田氏のいうところの、①「長吏とその配下の集団」、②「乞食・不具者」、③「籟病患者」から成っていた。
次に「東悲田院」とあるが、これは孤児・病者の救恤施設のことである。当時、養いきれなくて遺棄された子ども・病人たちはここに収容され、宿非人らと同様に各種のキヨメなど清掃業務にあたっていた。
最後にある「散在」であるが、これは非人宿には常住せず巡回(出稼ぎ?)していた、②「乞食・不具者」と③「ハンセン病患者」を指す。これらも清水坂の管轄下にあったようだ。
これらAグループこそが「狭義の非人」である。ではBグループは何か。
まず「獄舎」と「大籠」とあるが、これは当時の刑務所のことなのである。「獄舎」は検非違使の管轄下、「大籠」は六波羅探題の管理下にあったもので、その構成員としては囚人のみならず、刑務官である放免(獄卒)も含まれている。
囚人らがその罪によって「穢れを侵した存在」として、非人扱いされていたのは当時の理屈として理解できないことはないが、獄卒らも非人扱いされているのは釈然としないかもしれない。これは文脈としては、「籟病患者」「乞食・不具者」らを管理する「長吏とその支配層」と同じなのである。つまり「罪人と社会との橋渡しをする職能」を持つ存在として捉えることができる。
そして最後にある「散所」であるが、これは声聞師らなど雑芸能者のことを指している。これについては、シリーズ後半で詳細を述べる。
このBグループを「広議の非人」と呼ぶ。
「広義」と「狭義」の違いは何かというと、Aグループは「非人施行」と「温室料」の両方が施されているのであるが、Bグループには「温室料」だけで、「非人施行」は施されていないのである。
これにより当時の人々は、非人を大きく2種類に分類していたことが分かる。Aこそが非人の中核であって、Bはその亜流、というイメージであろうか。ただこの両者がどのような理由で区別されて、また待遇にどのような差があったのかはよく分かっていないのだ。
ただAにしてもBにしても、その前身の多くは下級神職であって、携わっていた職能は、清掃・葬送・警固・芸能ごとなどであり、いずれも「死の穢れ」と関連する職種であった。清掃には遺体の他、動物の死骸も片づける必要があったし、警固は死罪を含む罪人の処罰、芸能は穢れを払う踊りや歌から発展したものである。
過去の記事でも言及したが、聖なる存在でもあった河原者と同じように、上記のような穢れを払う役目を持った非人らもまた、聖なる存在であった。
「天狗を殺す、河原者」の記事はこちらを参照。この世ならぬものに打ち勝つことができるのは、異能の人だけであった。
特に清掃業務である「キヨメ(清目)」は古代のハライキヨメの神事につながるもので、常民はこれに参加する資格がなかった。ケガレを聖なるものに近づけることができるのは限られた人々だけで、それができる職能民こそが「非人」或いは「河原者」であったのである。こうした概念は後代になればなるほど薄れてしまい、その社会的地位は大幅に低下してしまうのであるが。
中世、非人になるルートには2種類あった。両親が非人、つまり生まれつきの非人であるパターンと、平民から転落する非人である。後者の概念としては、「罪」という穢れを犯したので非人となる、ということであろうか。通常の犯罪者だけでなく、前世の因業の結果であるとされていた、ハンセン病への罹患や、身体的な障害もここに含まれていた。(もちろん、大谷吉継のような身分ある大名はこの限りではなかった。ハンセン病の感染力は極めて低く、感染・発症の殆どは幼少期である。彼は成人になって感染した点でも、レアケースであるといえる。ダミアン神父のように遺伝的に感染しやすい体質だったか、実は幼少期に感染していて潜伏期間が異様に長かったか――数十年というケースもあるらしい――どちらかであると思われる。)
少なくとも江戸初期までは階級流動性があって、非人から平民への上昇も可能であったようだ。
事実、非人に落とされたが、短期間で処分が取り消されたものもいる。当時、不治の病であったハンセン病患者であるが、治ったと判断されたら(ハンセン病ではなく、重度の皮膚病だったのだろう)、家族の元に戻された例もあったようだ。(続く)