根来戦記の世界

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河原者と天部について~その⑪ 千本河原者の赤(しゃく)について

 これまでの記事で紹介したように、京における河原者の村で最大のものは「天部」であった。天部は四条河原にあり、その名の通り彼らは河原に住んでいたわけであるが、河原に住んでいない河原者もいた。例えば千本河原者、或いは野口河原者とも呼ばれた者たちである。(両者は別物である可能性もあるが、この記事では同じ河原者集団として扱う)

 千本という地名は、広義の意味では船岡山の西から南の地域にあたる。この辺りは蓮台野と呼ばれる古くからの葬送地であった。野地秀俊氏の研究によると、「洛中洛外地図屏風」において描かれた「千本閻魔堂」の門前にあたる場所に、「野口ノ大藪」という但し書きのついた藪があり、その中に数軒の家屋の屋根が描かれている、とのことである。天部と同じように竹藪で囲われていたと思われるこここそが、中世において千本或いは野口河原者が住んでいた集落であったと思われる。(江戸期に蓮台野村に移転。)

 ところが、この近くには川はないのだ。どうも彼らは天部から移住してきた河原者であったと思われる。彼らは北野社(北野天満宮)のキヨメを担当していたようなので、その仕事に従事させるために北野社が天部から呼び寄せた可能性が高いのである。

 さて複数の史料に、ここに住んでいたと思われる「千本の赤(しゃく)」という名の河原者が確認できる。まずは「北野社家日記」から。

 1490年3月のことである。徳政を要求する土一揆が京を襲い、迷惑なことに北野社に立てこもった。これを鎮圧しにきた管領細川政元勢と戦闘になり、北野社は焼失、数十人の死者が出るという事件があった。

 この戦闘で焼け落ちた社の廃材、そして死者の後片付けをしなければいけない。この作業を北野社が依頼した相手が「一本杉の松」という河原者だったのだが、これに対して「待った」をかけたのが「千本の赤」という河原者であった。

 千本の赤は「坊中に出仕する河原者は、肉食を禁じているはずだから、一本杉の河原者らはその仕事に相応しくない」という訴えを、北野社に申し入れたのである。これにより、寺社などに出入りする河原者の中には、業務の特性上、肉食をしていなかった者たちがいたことが分かるのが興味深い。

 過去の記事で「河原者は禁裏に出入りできなかった」と書いたが、このように肉食をせず穢れを払っていた者ならば、出入りも可能だったのかもしれない。過去の記事で紹介したように、山水河原者の又四郎は「誓ってものの命を取らず」という言葉を残している。つまり彼は、屠殺などの仕事には携わっていなかったということであり、もしかしたら肉食もしていなかったかもしれない。

 そしてこの千本の赤についても「松梅院が後土御門天皇から梅の木を所望された時に、どの木が良いかを助言した」という記録も残っているので、山水河原者としての職能も持っていたことがわかる。この両者のように、やんごとない寺社の造園に携わる山水河原者などは専業化が進み、穢れ度合いの強い仕事から分離しつつあったのかもしれない。

 話を戻すと実のところ、この争いには北野社の内部抗争が関係していたのである。当時の北野社は「松梅院」と「宝成院」この2つの寺院による派閥が主導権争いをしており、どうやら千本河原者は「松梅院」に出入りしていた河原者だったらしいのである。しかしこの時の造営奉行の責任者が「宝成院」だったため、一本杉河原者が登用されたのであった。

 いずれにせよ、千本の赤は千本河原者たちの代表として、北野社のキヨメの仕事に対する他の河原者集団の介入を阻止しようとしたのであった。この縄張り争いの結果がどうなったかは分からない。

 時代がぐっと下がって、1560年のこと。「北野天満宮史料目代日記」に次のような記述がある――「北野社の北で西京の者が、鳥羽の者を殺した。その死骸を「しゃく」に処理させた」というものである。この「しゃく」は「千本の赤(しゃく)」のことを指すものと思われる。

 2つの記録の間には70年もの開きがあるから、同一人物である可能性は低いだろう。ということは「赤」という名は、天部又次郎のように代々受け継がれてきた名、ということになる。おそらくは千本河原者のリーダーが名乗っていた名前だったのだろう。河原者を取り仕切る集団の長には、それなりの役得があったと思われるから、又次郎と違って世襲職であった可能性が高い。

 また「言継卿記」1566年の11月20日の条にも、野口河原者が出てくる。これは「嵯峨の御厨子所供御人(くごにん)」が、これまで猪肉を商品として扱っていたのだが、新たに猪皮まで扱い始めたことに対して、野口河原者が公事銭をかけるよう(要するにショバ代を払え、ということ)、近衛家に申し立てした、というものである。

 

獣皮を貼る河原者。獣の皮はぎ・鞣しは河原者の専売特許であったが、非人たちもある程度は扱っていたようだ。「御厨子所供御人」は朝廷に属し、元は天皇家の御厨(台所)に対して食材を提供した職能民である。こうした流れで猪肉を商品として扱っていたが、より儲かる商品である猪皮も扱うことにしたのだろう。この時代、獣皮は特に武具に多用されており、国産では賄えないほど需要があったのである。

 

当時、フィリピンや台湾に数多くの倭寇集団が住みついており、鹿皮などを盛んに日本に輸出していた。スペイン人に「ポルト・デ・ロス・ハポネス(日本人の港)」と呼ばれていた、倭寇集団が住んでいた港の記事はこちらを参照。

 

 これにより野口(千本)河原者が獣皮を扱っており、既得権益としてそれを主張したことが分かる。そしてその訴えを北野社ではなく近衛家に申し立てしていることから、彼らは北野社の支配下にあると同時に、近衛家支配下にもあったということが分かる。中世の主従関係は錯綜していたのが常であったから、同時に両者の支配に服していたとしても不思議ではない。

 どうも有している職能や権利ごとに、仕える相手が違っていたようである。この場合、獣皮に関しては何らかの形で近衛家の庇護を受けていた、ということになるのだが・・・申し立てを受けた近衛家では、何とこれを「河原者が勝手に言っていること」として突っぱねているのである。

 非人を含む「神人」というものは、基本的には寺社や公卿に隷属する存在であった。なので彼らの権益が侵害された時は、上部構造である存在はそれを必ず庇護する動きにでるはずで、事実そうした記録は山ほど残っているのだ。

 にも関わらず、このケースのように申し立てが受け入れられなかった、ということは、河原者は家に隷属する存在ではなかったから、近衛家としては庇護する必要性を感じなかった、ということになる。

 中世後期の記録には、河原者に対して仕事の対価として銭を与えた、というものが散見される。河原者が行う仕事は、日雇い的なものが多かったのかもしれない。そう考えると、やはり河原者は他の職能民と比べて「身分外身分」的な性格が強かったのではないか?と個人的に思うのである。(終わり)

 

<このシリーズの主な参考文献>

・京都の歴史 京都市編/京都市史編さん所/学芸書林

・中近世の被差別民像 非人・河原者・散所/世界人権問題研究センター 編

・戦国時代の京都を歩く/河内将芳 著/吉川弘文館

・洛中洛外の群像/瀬田勝哉 著/平凡社

・日本の聖と賤 中世編/野間宏沖浦和光 著/河出文庫

・河原ノ者・非人・秀吉/服部英雄 著/山川出版社

豊臣秀次の研究/藤田恒春 著/文献出版

室町文化論考/川嶋將生 著/法政大学出版社

・中世の非人と遊女/網野善彦 著/講談社芸術文庫

・異形の王権/網野善彦 著/平凡社

・穢れと神国の中世/片岡耕平 著/講談社選書メチエ

・庭園の中世史――足利義政と東山山荘/飛田範夫 著/吉川弘文館

・その他、各種論文を多数参考にした