根来戦記の世界

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河原者と天部について~その⑩ 首斬り又次郎について(下)

 さて、秀次一族の三条河原の処刑について調べていたところ、ネットで気になる画像を見つけた。秀次の一生を漫画化したものらしいのだが、下記がその画像である。

 

「秀次の生涯」というタイトルの学習漫画だろうか。2コマ目では雨まで降っている。当日は雨であったという記録があるのだろうか。これも確認できなかった。情報求む。ちなみに2コマ目に出てくる駒姫とは、東北の雄・最上義光の愛娘で伊達政宗の従妹にもあたる人物である。その美貌から15歳にして秀次から側室として求められ、故郷から遥々京へとやってきて最上屋敷で体を休めていたところ、秀次の自害騒動が発生する。実質的に嫁入り前であったにも関わらず、騒動の巻き添えになってしまい、刑場の露と消えた。母の大崎夫人はこの処刑のわずか14日後に亡くなっており、愛娘の後を追って自害した可能性が強い。また義光もこの理不尽な事件を決して忘れず、見届け役の石田三成を恨みに思っていた節があり、関ヶ原で東軍についた理由のひとつとなったと思われる。

 

 この漫画で引用されている文によると、「五十ばかりなる髭男、さも美しき姫君を犬の子を引き下ぐるようにして抱え、一刀刺し候へば御母儀ほか一同鳴立て給ひけり」とある。

 この原文はどこから引用したのだろうか?「関白雙紙」でもなく「聚楽物語」でもない。色々探したが、見つけることはできなかった。もし知っている人がいたら、是非教えていただきたい。

 前記事で引用した「大かうさまくんきのうち」と、内容が一部重複するところもあるが、それには載っていない事実が書いてある。処刑を執行する「五十ばかりなる髭男」のくだりがそれで、この引用文が確かなものだとするならば、この「五十の髭男」こそが天部又次郎ということになる。(4コマ目に刀と足元だけ登場している)

 そしてこの時の処刑の見届け人は、石田三成であった。(最後のコマに出ているのが彼だろうか?)しかしこの5年後に、関ケ原の戦いが起きて敗軍の将である三成は、京で処刑されることになる。

 斬首された場所は三条河原ではなく六条河原なのだが、同じように又次郎が刑を執行したと考えられる。又次郎を名乗る男が代替わりしておらず、5年前と変わっていなければ、又次郎はかつて自分を指図した男の首を、今度は逆に斬り落としたことになる。

 また処刑直前の三成が干柿を勧められ、断わったというエピソードは有名である。話の流れからいうと、干柿を勧めたのは番をしていた河原者ということになり、これが又次郎だったら彼の人間性を示すものとして興味深いのだが・・・残念ながら、この話は江戸の享保年間になってから付け足されたもので、実際にはなかった創作エピソードのようである。

 なお江戸における首斬り・浅右衛門であるが、山田家には副業が幾つかあった。罪人の体を使った、刀の試し斬りがそのひとつだ。死刑執行人ではあったが、山田家は身分としては武士であったので(ただし形の上では浪人)、そうした依頼が大名家や裕福な旗本から相次いだのである。

 だが山田家には、もっと大きな裏収入があった。それは首を斬られた罪人の肝を原料とした、漢方薬の販売である。これを「山田丸」といい、唯一無二の(そりゃそうだ)労咳に効く妙薬として高価で販売されていた。これらの収入で、山田家は己が手を掛けた罪人たちの供養を行っている。(タイトルは忘れたが、昔読んだ実録で明治になってお役を解かれ収入がなくなり、家屋敷を手放しとある家に居候していた、最後の浅右衛門のエピソードを読んだことがある。それによると彼は『お役以外ではどんな生き物の命をとらず』と決めていたようで、身体にたかる虱さえ殺さなかったという)

 天部又次郎の名そのものは、江戸期に入ってからも確認できるので、京においては引き続き処刑執行人を務めていたようである。武士ではなかったので、山田家のように刀の試し切りや、(不気味な)丸薬販売などを手掛けることはできなかっただろうが、試し斬り用の罪人の死体や、原料としての肝の販売などは裏で行っていたかもしれない。(続く)