根来戦記の世界

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非人について~その⑬ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(下) 淀君の暴走と秀吉の葛藤、そして秀次の死

 先の記事で少し触れたが、声聞師たちは秀吉によって弾圧を受けている。1594年、堺で10人、大阪で8人、そして京都で109人の声聞師たちが、尾張強制移住させられているのだ。

 この奇妙な事件を、これまでの史学会ではどう説明していたのか?声聞師たちは治水の技術を(呪術的なものを含む)持っていたらしく、それを尾張における灌漑のために役立てたかったのだ、というのが通説のようだ。しかし裏には次のような事情があったのではないか――というのが服部氏の論旨なのだ。

 西洞院時慶が記した「時慶記」1593年10月19日の条には、このような旨の記載がある――「大阪城にいた声聞師が追放された。男女の問題で金塊を得たというのがその理由である」。次の日、20日の日記にはこうある。「留守中に曲事があった。(淀君つきの)女房衆は、一両日中に成敗されるだろう」。

 また同じ事件のことを、フロイスがこう残している――「運命占いをする黒魔術師たちが、大阪城にいる女たちから金塊10個を騙し取った。(中略)宮殿の女たちの間で多くの混乱・不行跡がみられたので、多数の男女と仏僧(運命占いとあることから、僧ではなく声聞師であったと思われる)が処刑された。(中略)火刑や斬刑に処された数は30名を超えた」

 秀頼が誕生したのは、1593年8月3日である。その2か月後の10月下旬、大阪城にて何らかの不祥事があったのだ。その結果、まず大阪城に出入りしていた声聞師らが追放(直後に処刑?)、そして翌日から淀君つきの女房が続けて処刑されている。そして翌94年に、畿内にいる全ての声聞師たちが尾張に追放、という流れになっているのだ。これが何を意味するのか。

 つまり、こういうことである――まず秀吉と淀君との間にできた、第一子の鶴松は「参籠の術」を使って妊娠・出産したものである。つまり鶴松は、淀君声聞師の間にできた子だった。だがこれは、秀吉公認の元に行われた「不妊治療」であったのだ。しかしそこまでして得た鶴松は、1591年に夭折してしまう。

 その2年後に、淀君は第二子を産む。だが、鶴松のときと違う点が1つあった――1回目の時と違って、これを秀吉は知らなかったのである。つまり淀君は独断でこれを行っていたのだ。秀頼を受胎したと思われる時期、秀吉は淀君と一緒にいなかったのではないか、というのが服部氏の論だ。

 事実、淀君の懐妊を知った秀吉だが、これを喜んでいる形跡がない。第一子の鶴松懐妊の時とは対照的で、例えば出産3か月前の5月に、秀吉が正室のねねに送った書状が残っているが、その中で秀頼の誕生について「めでたい話ではあるが、子は欲しいと思っていなかった」旨が書いてある。

 淀君は単なる火遊びの結果、身籠ったのか?それとも本当に独断で、通夜参籠の術に挑んだのか?どちらかは分からない。前者であったとするならば、秀吉に対する言い訳の為に後付けで「通夜参籠の術を使った」ことにした、ということになる。この場合、秀頼の父は誰だかは分からないが、淀君が浮気した相手ということになる。後者であったとしたならば、声聞師が相手だったということになる――もしかしたら、鶴松の時と同じ相手であったかもしれない。

 いずれにせよ、誕生直後の声聞師追放と淀君つき女房の処刑、という異様な動きは、これで説明できる。葛藤した挙句、秀吉は最終的には淀君を許して秀頼を認知したのだが、これに関わった者どもを絶対に許すわけにはいかなかったのである。

 

Wikiより画像転載。狩野光信作「豊臣秀吉像」。晩年の秀吉からは、若い頃の良さが全く失われてしまっている。地位が人を変える分かりやすい例であるが、変わらなければその座を維持できなかったのかもしれない。例えば、松平家三河武士団といった強力なバックボーンを持っていた家康と違って(それはそれで家康も大変だったのだが)、身寄りも後ろ盾もない秀吉は一門の形成に相当な無理をしなければいけなかった。無理をしたその歪みが、数少ない一族であった「秀次の粛清」という最悪の形で現れたといえる。なお同時期に、陰陽師の土御門家がこれに関連していたとして、当主の久脩(ひさなが)が声聞師たちと同じく尾張に配流となっている(秀吉の死後、許されて復帰)。数多くの人間が貴賤を問わず処刑されている中、ただの配流で済まされていることから、久脩はこの事件にそれほど関りがあったわけではなさそうだ。やはり主犯は、こうした技を生業とする声聞師たちであったのだろう。

 とはいえ、人の口には戸は建てられない。これを知って激高したのが、甥であり公認の後継者であった秀次である。流石に表立って淀君を非難することはできなかっただろう。しかし95年6月の秀次の異様な死に方もまた、この件に強く関りがあったのではないだろうか。

 秀次の節々に、そういう態度が出ていたかもしれない。或いはどこかのタイミングで、我慢できずに失言してしまったのかもしれない。秀次の怒りは、不義をした淀君に対するものであって、秀吉に対するものではなかった。だがこれは秀吉にとっては、最も触れて欲しくないセンシティブな部分であったのだ。

 

秀次一族の凄惨な処刑の様子に関しては、こちらの記事を参照。三条河原にて処刑後、秀次とその一族の首は穴の中に放り込まれるが、その上に築かれた首塚の墓碑銘は「悪逆非道」であった。これに関連して、他にも数多くの人間が殺されている。更には秀次の痕跡まで消し去ろうと、聚楽第近江八幡山城の破却が命じられている。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸大名の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構が全く残っていないのはこのためである。このように秀吉が秀次に抱いた感情は、憎悪を通り越して異常なレベルのものであるが、その理由は公式には未だに謎のままなのである。

 

 なお秀吉の声聞師弾圧だが、先述した尾張への強制移住の他にも、「800人の乞食(=声聞師?)を豊後に移住させた」とフロイスの記録にある。ただ流石にこの数は多すぎるし、他の記録に該当する記事が見当たらないので、どこまで本当か分からない。

 いずれにせよ、実際にことに関わった声聞師たちが既に処刑されているにも関わらず、同じ声聞師であるという理由だけで追放刑とは、とばっちりもいいところである。何の土地勘も縁もない土地への強制移住である。声聞師が治水技術を持っていたといえども、全員がそれのスペシャリストであったとは到底思えない。普段は芸能ごとを仕事にしている声聞師たちが、如何ほど灌漑・開墾の役にたったことだろうか?

 その後、彼らがどうなったかは分からない。だが秀吉が死んですぐ、京において声聞師たちの活動が再開した記録が見られる。待ってました、とばかりにすぐ許されて、京に戻ったのではないだろうか。(続く)