根来戦記の世界

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非人について~その⑧ 京の声聞師たち・彼らを仕切っていた組織

 大道芸で食っていた声聞師たちであるが、それぞれが勝手気ままに町中を徘徊し、芸を行っていたわけではない。混乱や争いを避けるために、彼らなりの仕来りがあり、縄張りもあっただろう。つまり彼らを仕切っていた組織があった、ということである。

 こうした組織として、奈良にあった「五カ所」と「十座」が有名である。両組織を統括する立場にあった、興福寺・大乗院の史料が豊富に残されているから、詳細な研究が進んでいるのだ。

 両者は大和における声聞師の指導者的立場にいた集団で、いわゆるひとつの「座」を形成していた。まず「十座」は、大和数十カ所に対する声聞師の座頭として、「七道に対する自専権」を持っていた。そして「五カ所」と呼ばれた声聞師集団であるが、これは春日大社の大鳥居より南にいる乞食の支配権、つまり「大和南部の乞食に対する検断権」を持っていた。ちなみに北の支配権は「北宿」という声聞師集団が有していたようだが、両組織ほど史料が残っていないので、そこまで研究が進んでいない。この3つの組織を併せて「三党」と呼ぶ。

 「大和乞食に対する検断権」と「七道に対する自専権」、これは大きな利益を生む既得権益であった。少なくとも大和国における七道――乞食・祝い事・大道芸に関わる芸能ごとは、全て彼らによってプロデュースされなければならず、これらの組織は彼らに対する検断権まで有していたのである。

 先の記事で紹介した、観阿弥世阿弥を輩出し、武家の庇護を受けていた「四座猿楽」ですら、「三党」の支配下にあった。大和では彼らの許可なしでは芸能ごとは一切行えなかったから、その利権は極めて大きなものであったのだ。

 例えば、宇治の一座などのよそ者が大和において興行する際も、五カ所・十座の許可なしには行えなかった、とある。こうした場合、おそらく興業権として相当する額の銭を上納させたものと思われる。

 このように、大和における声聞師集団は「三党」が仕切っていた。では京における声聞師集団は、誰が仕切っていたのだろうか?これがよく分かっていないのだ。同じような組織が京にもあったはずなのだが、史料が残されておらず、その存在が確認されていないのである。

 

上杉本「洛中洛外図」より。正月に「千秋万歳」の芸を行うために家々を廻る、3人組の声聞師たち。正月に限らず、こうした季節の行事は声聞師たちにとっては、絶好のかき入れ時であった。こうした「芸の訪問販売」を無秩序に行ったとは考えづらく、それぞれ縄張りがあったと思われる。ならば、それを仕切っていた組織があったはずなのだ。ただ史料に出てこないことから、京にあった組織は大和の三党ほどには強い権力を持っていなかった可能性はある。

 これに関連した、杉山美絵氏による大変興味深い研究がある。その論文「戦国期の禁裏における、声聞師大黒の存在形態」によると、京で流行した芸能は、時代によって変化がみられるらしい。「応仁の乱」前後によって京における芸能のトレンドが変わっているのだ。

 各種史料から、15世紀には「松柏(しょうはく)」という芸能が流行していたことが確認できる。元来、この松柏というものは「松をかざして訪問先を言祝ぐ」という、素朴な祝福芸能であった。だが15世紀に入ったあたりから、様々な意匠を凝らした風流ごとを中心とした、総合的なエンターテイメントに進化したのである。

 「看聞日記」には、「柳原」や「犬若」といった京の一座が、公家や武家の邸宅に出入りして松柏を行っていたことが記録に残されている。観客は松柏そのものよりも、パッケージとしてその後に行われる、猿楽や舞などの雑芸を楽しんだようだ。

 ところが、この総合エンタメとしての松柏は、その内容に猿楽を含むものであったがゆえに、大和猿楽が有する権利を阻害するものとして、有形無形の圧力を受けたのである。例えば、1431年正月11日条の「満済准后日記」には、室町御所における地元の声聞師集団の松柏の出入りが禁止され、以後は代わりに四座猿楽のひとつである観世座が参入することになった、とある。元来、京の声聞師たちが演じていた場を、大和の猿楽に奪われたのである。

 先述したように、京にも大和における「三党」のような組織はあったと思われ、本来はこうした組織が京の声聞師を守るべく動かなければいけないのだが、うまく機能していないのである。こと猿楽に関する興行においては、四座猿楽の武家に対する食い込みの強さは、絶大なものであったようだ。

 ところが京において一世を風靡したこの「松柏」であるが、応仁の乱後には殆ど見られなくなるのである。代わりに京で流行ったのは「曲舞(くせまい)」であった。どうも大和猿楽からの圧力を嫌った京の声聞師たち(ひいてはそれを仕切る組織)が、その代わりに新しい芸能であり、どこからも圧力のかからない「曲舞」を演じることを選んだ、ということのようだ。京における四座猿楽による興行妨害の記録は、戦国期には見られなくなる。

 この「曲舞」だが、鼓で拍子をとりながら、詩を歌いつつ踊るものである。その演目名が記録に残っている。「頼朝都入」「張良」「なす與一」「曽我十番剪」「あつもり」などなど・・・まるで歌舞伎の演目名である。それぞれ演目のテーマに沿って、踊りつつ謡うという内容だったようだ。当時の人々によっては、ミュージカルを観劇するのに近い感じだったのかもしれない。(続く)