先の記事で、戦乱の世を乗り越えられなかった声聞師集団として「小犬党」を紹介した。こうした党は他にもあって、室町期の記録にはあるが、戦国期の記録には出てこない党として「柳原党」「犬若党」「蝶阿党」などがある。
まず「柳原党」だが、これは比較的大きな集団であったようだ。相国寺に隷属し、その西方にあった柳原散所を本拠としていた。声聞師たちは、どうもこうした大きな党を母体として、更に小さな党を形成していた節がある。犬若党や蝶阿党などは、もしかしたらここに所属していた声聞師が別に結成した、小さな党だったかもしれない。或いは柳原散所を本拠として活動する幾つかの声聞師集団を、まとめて柳原党と呼んでいた可能性もある。
さて「犬若党」だが、1419年の記録に貞成親王の屋敷において、柳原党と一緒に猿楽やその他の芸を演じている記録が残っている。1430年に後小松院が室町殿へ行幸した際にも、一緒について行って猿楽を演じたようだ。
「蝶阿党」は、「看聞日記」1433年の記録に出てくる声聞師集団だ。犬若党と同じように、正月に貞成親王の屋敷を訪れ「松柏」を演じている。だがどうも酷い出来であったようで、親王からは「散々下手」と評され、ほとんど追い出されるようにして屋敷から退出している。小犬党とは逆に、このようにとても演技が下手な一党もいたのである。
この他にも「末村」「さるらう」「市」といった党(個人名の可能性もある)があったようだ。また記録に残ってないだけで、戦国期に入って消えてしまった声聞師集団は他にもあったと思われる。では逆に、戦国期に残っていた声聞師集団は何があるのだろうか?
過去の記事で述べた「大黒党」に近しい党として、「北畠党」という集団がいた。内裏の北東に集住していた声聞師集団であるが、大黒党と同じように、松拍や千秋万歳において曲舞を演じていたことが判明している。また祇園会の際に出し物として、鉾を以て参内したことが記録に残っていることから、ここもまた規模の大きな党であったと推測される。室町期からその存在が確認できる彼らもまた、大黒党と同じように戦国末期まで活動しているのが確認できる。
そしてもうひとつ、「桜町党」がいる。これは記録に現れるのが1533年以降であることから、比較的新しくできた声聞師集団だったらしい。どうやら北畠党から分派した党のようだ。初めは北畠党がやっていた、禁裏において行われる5日の千秋万歳を代理として行っていたようだが、そのうちこれを正式に請け負うようになっているのだ。
この桜町党、小犬党ほどではないにせよ、どうやら「曲舞」が達者な集団であったらしい。戦国期の京に生きた記録マニア・山科言継は曲舞が好きだったらしく、「言継卿記」には己が観劇した具体的な演目名を記しているが、その殆どは5日に行われた、北畠ないしは桜町の千秋万歳に関するものである。
こうしたことから、正月4日に行われる千秋万歳は大黒党による伝統的(或いは呪術的)な昔からの舞、そして5日に行われる千秋万歳は桜町党による、ぐっとエンタメに寄せた舞、という棲み分けであったであろうと推測されている。
京都の声聞師に関して残っている記録は、先の記事の左義長も含めて、正月に関連する行事に関わるものが多い。何故、彼らが正月の行事に関わることになったのかというと、彼らが持っている職能の一つはキヨメであって、正月の祝言もめでたい詞を発して新年を寿ぐ、いわば「精神の清め」にあったからだろうと考えられている。また、それだけ禁裏や公家社会において正月行事が重要な意味を持っていたことでもある。
彼ら声聞師は、こうした正月の芸能ごとから徐々に、他の芸能分野にも進出していくことになる。その芸ごとは多岐に渡る。猿楽、傀儡まわし、猿飼い(猿回し)、辻占い、鉢叩き、読経などなど。
これらの芸ごとからは、傀儡まわしから発展した人形浄瑠璃のように、江戸期になって芸能として満開の花を咲かせるものも出てくるのだ。
しかし、これら京都の声聞師たちを突然、災厄が襲う。
1594年に秀吉の命によって、畿内の声聞師らが尾張に強制移住させられてしまったのだ。このうち京から追放された声聞師は109名にも及ぶ。彼らの不在によって、寺社や内裏が予定していた行事が行えないなどの事態となって、大変困ったという記録が残っている。これら声聞師たちの追放解除は、1598年の秀吉の死を待たなければならなかった。その死の翌年には、千秋万歳の活動が再び記録されている。
それにしても、なぜ秀吉は急に声聞師たちを追放したのだろうか。
実はその裏には、天下を揺るがす大きなスキャンダルがあったのである。(続く)