根来戦記の世界

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非人について~その⑩ 京の声聞師たち・室町の一世を風靡した芸能集団・「小犬党」

 先の記事で、応仁の乱を境に声聞師集団のパワーバランスが変化した可能性がある、と書いた。室町期に見られた幾つかの党が、戦国期の記録には見られなくなるのだ。

 室町期に存在した有名な声聞師集団に「小犬党」がある。

 相国寺の西、柳原に居住していたと思われる声聞師集団である。各種記録には「小犬党」の他、「唱門師小犬」「小犬太夫」「小犬座」などという名で登場している。この小犬党を率いていた者の名は、「小犬」である。これは個人名ではなく、小犬党を率いていたリーダーが、代々名乗っていた名前なのである。名を継ぐ、という点では、河原者の死刑執行人・天部又次郎と同じである。

 この声聞師集団「小犬党」は、少なくとも1428~1488年の約60年間に渡って活躍しているのが確認されている。禁裏や伏見殿で諸芸を演じた記録が残っているのだ。どうもリーダーの座は父子相伝ではなく、集団の中から芸達者なものが選ばれたようである(これも天部又次郎と同じである)。あくまで実力本位の集団であり、「芸を極める」点において、明確な意思を持った集団であった。

 彼らの芸は多岐に渡るものであったらしく、先に紹介した「松拍」の他、手毬、曲舞などの「諸芸」を披露している様子が確認できる。しかしこの小犬党、何といっても極めて優れた猿楽の演者たちであったのだ。彼らを「猿楽上手」「芸能甚神妙」などと評した記録があり、その芸が世間から絶賛されていた様子が伝わってくる。

 しかしこと猿楽の興行に関しては、武家の庇護を受けた大和の四座猿楽が目を光らせており、強力なライバルと目されてしまい、その圧力を直に受けたようだ。

 過去の記事で、1431年頃に起きた事件として、室町御所における地元の声聞師集団の松柏の出入りが禁止され、演じていた場を四座猿楽のひとつである観音座に取られた、と書いた。その際に出入り禁止にされた党こそが、この小犬党であった。

 その13年後、「看聞日記」1443年正月の条には、小犬党はこうした大和猿楽の圧力で、公方(要するに武家)に呼ばれて芸をすることができなくなってしまった、とある。四座猿楽からの圧力は、その後も続いていたことが分かる。

 それどころか、圧力は更に増していたようだ。1450年2月23日には、小犬党が六道珍皇寺において猿楽の興行を行おうとしたところ、勧世・金春ら、大和猿楽の名人たちの異議申し立てにより、その場から追い払われるという事件があった。四座猿楽は何と、管領畠山持国を動かして、侍所・京極持清の配下に小犬党を追散させたのであった。洛中における猿楽興行の独占を狙った四座猿楽は、小犬党が京で猿楽を演じることさえ禁止してしまったのである。

 更にこの16年後、1466年の4月4日。「小犬大夫」が祇園林の東で捕まった旨が「陰凉軒日録」に記されている。京ではなく、近江で小犬党が勧進を行ったのだが、その際に「着面の罪科」の罪を犯したとのことで、捕縛されてしまったのである。詳細はよく分からないが、どうもこの頃には猿楽がどこで演じられようと、「面を被って」能を演じること自体が、大和猿楽の特権を侵すものとして罪に問われたようである。

 そしてこの小犬党、「応仁の乱」が終わって10年ほどたった88年2月5日に、参内して曲舞を踊ったという記録を最後に、その存在が確認できなくなってしまうのだ。

 以下は個人的な見解になるのだが――大和の名門猿楽師らによる執拗な営業妨害から察するに、小犬率いる一座の芸のレベルは高く、客入りも良かったと思われる。リーダーの座を芸達者な者に継がせるほどであったことから分かるように、或いは小犬党は芸に特化した声聞師集団だったのかもしれない。

 声聞師集団であったからには、小犬党も何かしらの職能を持っていたはずである。先の記事で紹介したように、例えば大黒党は「禁裏の御庭者」でもあった。そして「応仁の乱」から始まる戦国の世を生き延びるためには、こうした職能が功を奏したはずである。

 しかし「芸能集団」に特化してしまった小犬党は、他に職能を持っていたとしても、その「うまみ」は少ないものだったのかもしれない。或いはその逆で、そもそも職能では食っていけなかったからこそ、芸に特化せざるを得なかったのかもしれない。

 平和な室町の世においては、それでも十分やっていけたし、その名声の高さから逆に他の党よりも稼いでおり、羽振りが良かったようにも見受けられる。

 だが乱世となり、その芸を披露する場は激減してしまう。また仮に、その芸を伝えるべきキーとなる人間が、戦乱に巻き込まれて不慮の死を遂げた場合には、その痛手から立ち直るのは難しかっただろう。

 いずれにせよ戦乱による混乱、そして大和猿楽の執拗な攻撃もあり、芸能集団「小犬党」は歴史から姿を消してしまう。同時にその優れた芸もまた、永遠に失われてしまったのであった。(続く)

 

東京国立博物館所蔵「七十一番職人歌合」より。左が曲舞の演者で、右が白拍子。わざわざ両者を同じ図で紹介していることから、曲舞は白拍子から発展したという説もある。