京の声聞師集団は、正月の4日・5日の両日に禁裏、7日には将軍邸を訪れ、そこで中世のミュージカルである「曲舞(くせまい)」を披露して正月を祝った、と当時の記録にある。この行事を「千秋万歳(せんずまんさい)」と呼ぶ。
まず4日に行われる「千秋万歳」を行っていたのが、声聞師集団「大黒党」である。1570年の正月には、千秋万歳とは別にその名の由来となる「大黒舞」を正親町天皇の前で披露した、という記録が残っている。
この大黒党であるが、禁裏の近くの今出川町辺りに集住していたようだ。その起源は古く、13世紀に遡る。京の声聞師集団の中でもそれなりに力を持っていた、由緒ある党であったと思われる。
中世の加茂川には五条橋が架かっていた。川の中ほどに大きな中洲があり、五条中島と呼ばれていた(これについては、別のシリーズで後述する)。まさしく「島」と呼ぶにふさわしい、どっしりとした中洲で、ここには「大黒堂」と呼ばれる建物が建っていた。この「大黒堂」は、この大黒党と何らかの関連があっただろうと推測されている。また五条あたりの河原には、声聞師の小さな集落があったと思われるのだが、或いはここも大黒党の分村のようなものだったかもしれない。
拙著では、ここを本拠として活動する印地集団「大黒印地衆」を登場させているが、これは勿論、架空の集団であり、大黒党が印地に関わっていたという記録は存在しない。
大黒党の活動として、他にも陰暦9月9日の重陽の節句のために、禁裏の庭に菊を植えているのが確認できる。これは「菊の着せ綿」という行事のために行うもので、重陽の節句の前日に、菊の花に綿を被せておくのである。すると錦は朝露を含んで湿るので、菊の花の香りが移ったその水で体を拭くと、無病息災になるのである。その行事の為の菊を前日に植えるのが、大黒党の仕事のひとつであった。
こうした仕事の内容から、大黒党は禁裏の御庭者であった可能性がある。事実、1481年5月23日条の「言国卿日記」には、「御庭者タイコク」という記述があるのだ。また他の複数の史料にも、大黒党の人間がイチョウや松の木を調達したり、世話している様子が残っている。
御庭者といえば、通常は河原者の仕事である。だが穢れの概念が厳格であった禁裏においては、河原者の代わりに声聞師がその任を果たしていたようだ。1428年6月10日条の「建内記」には、それまで禁裏の御庭の仕事は河原者が行っていたのだが、その穢れの多さを忌避し声聞師に交代させた、旨の記述がある。この時に河原者に代わって、禁裏の御庭者に任命されたのが、この大黒党(或いはその前身)であった可能性が高いのだ。
御庭者であった「山水河原者」については、こちらの記事を参照。ここで紹介した又四郎の逸話は、哀しくもあるが人の心をうつ、とてもいい話である。
さてこの大黒党が独占的に行っていた行事に、正月18日に禁裏で行われた「大左義長(おおさぎちょう)」がある。
大左義長(大三毬打とも)とは、まず禁裏の紫宸殿南庭に竹を骨組みにした三角錐の巨大な柴山を幾つも(30本という記録がある)こしらえる。夜明けを待って一気に火を点け、燃え上がらせるというダイナミックな行事だ。今も日本各地で行われている「どんと焼き」の原型である。
この柴山を燃やす際、大黒党の声聞師らが笛・太鼓などを使って盛んに囃し立てたというから、さぞかし盛り上がるエンタメだったのだろう。京人たちも大変に楽しみにしていた娯楽で、毎年大勢の見物人(1545年の記録には、2万人とも!)が見学に訪れていたことが、当時の日記にも書かれている。
この大左義長を仕切っていたのは、やはり大黒党であった。応仁の乱以前は他の党(柳原・北畑など)が関わっていた記録が散見されるが、乱以降は大黒党の独壇場になっている。応仁の乱を境に、京の声聞師集団のパワーバランスが変わって、党の再編成が行われた可能性がある。(続く)