根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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非人について~その⑦ 京の声聞師たち・芸能の民

 拙著1巻「京の印地打ち」に登場する「大黒印地衆」は「声聞師(しょもじ)」たちから成る印地集団である。声聞師とは「広義の非人」の中に分類された職能のひとつで、民間で芸能ごとを行っていた人々である。安倍晴明で有名な陰陽師の系譜を引く、という触れ込みで活動していたが、嘘であろう。

 世界的に見ても凡そ全ての芸能は、「祝い」という宗教的な行事がその源流にある。声聞師たちの携わっていた芸能もそうである。そして中世は現在よりも遥かに、こうした祝福芸能を大変に重視した社会なのである。なので、その種類も大変に多かった。

 声聞師の代表的な芸をあげると、まず「陰陽」は卜占や加持祈祷、「金鼓」は鉦を打ちながら経文を唱えるもの、「歴世宮」は暦の販売、「彼岸経・毘沙門経・盆」は季節の行事の際に家々を訪ねて読経したり、摺仏を売ったりするもの、「曲舞」は鼓で拍子をとりながら、詩を歌いつつ踊る、というものであった。

 時代や地域によっても、その内容は変わっていく。この他にも「猿楽(能楽)」、「傀儡まわし」、「猿飼い(猿回し)」などがあった。

 これらの芸は、先ほど述べたように宗教的な意味合いが強いものであった。内容的にもそこまで見ごたえのあるものではなく、みな大道芸である。店を構えているわけではなく、町の辻々で行っていた。或いは家の門前にまで押しかけていって、演目をやる。こうした芸の中には押し売りに近いものもあっただろう。門口でひどい芸を披露されて、厄介払いとして小銭や米を与えることもあったようだ。

 しかし、こうした雑芸の中から、門づけレベルではない、本物の芸術へと昇華していくものもあったのである。その代表的なのものが、猿楽である。

 元は朝廷に仕えていた芸能を専らとする「散楽戸」らが、平安期に朝廷の保護から外され野に下った。彼ら散楽師らは有力な寺社の保護を受けながら、辻々で芸を披露し、それらが民間へと受け継がれていったと見られている。これが猿楽の源流である。

 元来の猿楽の演目は実のところ、手品・曲芸・軽業などを含むものであった。またメインの出し物は物真似で、内容はコミカルなものであった。このコミカルな部分は、今も狂言という形で現代に伝わっている。

 

東京藝術大学大学美術館蔵「信西古楽図」より。初期の散楽の様子。元は中国から伝わった芸だったようで、どちらかというとサーカスに近い。内容を見る限り、まさしく中国雑技団だったことが分かる。

 この猿楽を本格的な「芸術」に昇華させたのは、室町期に出現した、観阿弥世阿弥の親子である。残念ながらブログ主には、猿楽の芸に関しての素養や知識はないため、その内容には深く立ち入れない。ただ「幽玄」という概念を取り入れたそれは、内容的には現在の「能」と殆ど変わらない、とある。

 観阿弥世阿弥の親子は、特に足利将軍・義満に愛され、その強い庇護を受ける。以降、猿楽は武家の教養のひとつとされ、大きな発展を遂げるのであった。

 猿楽の本場は大和であった。大和にある外山座(宝生座)、坂戸座(金剛座)、円満井座(金春座)、そして観阿弥世阿弥の親子が属していた結崎座(観世座)の4つは、「四座猿楽」と呼ばれていた。

 彼ら「四座猿楽」は武家の強い庇護を受けていたから、よく他の声聞師集団が行う猿楽の興行に、圧力をかけて潰すようなこともしていた。地元の大和のみならず、京における猿楽興行まで彼らの影響下にあったようである。(続く)