根来戦記の世界

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非人について~その⑫ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(上)秀頼は誰の子か?

 話が唐突にそれるのだが、秀頼は秀吉の実子ではない・・・というのは「現代医学的には」間違いのないところらしい。幾つかのデータを現代医学の知見から見てみよう。

 服部英雄氏の著作「河原ノ者・非人・秀吉」によると、好色な秀吉が生涯に愛した女性の数は、100人以上いたらしい。己の出自が卑しい、という強烈なコンプレックスがあったため、その多くが高貴な身分の女性であった。

 その数を厳密に数えることはできないが、中には経産婦も多数いたことが分かっている。代表的な女性に、秀吉の最もお気に入りの側室であった京極龍子がいる。この龍子、秀吉の元に嫁す前に3人の子を産んでいるのだ。

 にもかかわらず、秀吉との間には子どもはできていない。というよりも、秀吉との間に子どもを成した女性は、淀君以外には1人もいないのだ。側室の中には、暇を貰って他に嫁ぐものもいた。その途端に妊娠、出産した女性は確認できるだけで、少なくとも3人いる。秀吉は無精子症であった可能性が極めて高いのである。

 その秀吉が53歳になって突如、茶々(後の淀君)との間に一子ができる。その鶴松が若くして死亡すると、入れ代わりに秀頼が誕生する。この時、秀吉は57歳だ。現代医学的には「絶対」といっていいほど、あり得ない確率なのだ。ではこの2人は、誰の子どもだったのだろうか。

 当時からそういう噂はあったようだ。真の父親は大野治長である、と言われていたそうである。ところがここに1冊の本がある。江戸期に入ってからの書物だが、天野信景が記した「塩尻」という本には、子どもは2人とも茶々と「卜占法師」との間にできた子どもである、と記してあるのだ。

 昔から、子どものいない夫婦の子作り方法として、「通夜参籠(つやさんろう)」という方法があった。神仏に願掛けして、おこもりする。読経を毎晩行い、宗教的陶酔が頂点に達すると妊娠する、という秘法だ。

 網野善彦氏によると、この参籠の場はしばしば男女交情の場となったそうである。要するに子種を他の男性から貰い、妊娠するという仕組みなのである。この術が成立するためには、条件が2つあった。まず夫の承認を得ること。次に宗教的儀式を伴うこと。夫の承認の元、神仏と一体になることが必要であり、それがあれば容認されたのである。

 1588年、秀吉51歳、茶々20歳。秀吉は自分に子種がないことは、承知していたはずだ。だが何としても、(名目的にでも)自分の血を引く子が欲しかった。しかも相手は自分の主君の妹であり、おそらく若い頃から憧憬の対象でもあった、お市の方の実娘の茶々である。これ以上の存在は望むべくもない。その秀吉が最後の手段として取ったのが、この不妊治療の一種である、通夜参籠の術だったのである。

 この儀式には宗教者が関与していたはずで、「卜占法師」というのは陰陽師ないし、声聞師の一種だろう。また相手の男性は人格を持ってはいけなかった。故に暗闇の中で、この儀式は行われたのではなかろうか――というのが服部氏の論旨なのである。実に興味深い。

 

Wikiより画像転載。伝淀君画像。時代の波に翻弄されまくった女性。だが、ただ黙って流されるだけの女性ではなかった。自らがイニシアチブを取って、最後まで行動した強い女性でもあった――結果、豊家滅亡の原因をつくった元凶と目されるようになるのだが。ただ彼女の人生を追ってみると、その境遇には同情せざるを得ない点が多い。叔父である信長に実父・浅井長政と幼弟・万腹丸を殺されている。その浅井攻めを長らく担当していた秀吉に、実母の再婚先である柴田家を滅ぼされ、母であるお市の方は自害してしまっている。両親や弟の死に強く関わっている、そんな秀吉の元に嫁いでいるのだ。その内心たるや、どういうものだったのだろうか。

 この他、鶴松誕生時の不可解な事件や、秀頼が受胎したであろう時期に、淀君は秀吉と一緒にいなかった可能性があるという点、また秀頼を妊娠したと知ったときの秀吉の反応など、その根拠となる事例をひとつひとつ丁寧に拾い上げている。

 細かくは是非、服部氏の詳細な研究を読んでいただきたいのだが、先の記事で少しだけ触れた、声聞師尾張追放と関連した悲惨な事件について、服部氏の主張をもうちょっとだけ紹介したい。(続く)

 

前半は河原者・非人についての学術論文。後半は打って変わって読みやすい、一般向けの内容となる。秀吉の生い立ち、そして闇に包まれた秀頼の出生について、史料を引用しつつ大胆な考察をしている。この本が出るまでは、秀頼が秀吉の実子であったかどうかは大きな問題ではなく、歴史学的には意味のない研究である、という認識であった(今もそうかもしれない)。だが仮に、それこそが秀次の死の原因であったとするならば、実子であったか否か、また誰がどのようにして子を成したのか、そうした背景を研究することは大きな意味があるだろう。拙著を読んでいただいた方は分かると思うが、「京の印地打ち」の肝となるアイデアはこの本から頂いている。