根来戦記の世界

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旅行記~その⑯ 北陸旅行記 「御館の乱」終焉も、深い傷を負った上杉家

 北条勢による坂戸城攻略は失敗し、成すことなく関東に軍を返してしまいます。景虎にしてみれば、これで来年の雪解けまでは援軍の期待はできなくなったのです。状況はようやくにして、景勝に有利になりました。

 10月24日、勢いに乗った景勝勢は春日山城から出撃します。御館からは北条(きたじょう)景広と本庄秀綱が出撃、これを迎え討ちますが、100人余りが討ち取られ、旗指物まで遺棄して退却という有様。以降、景虎は御館に逼塞することになります。

 景勝にしてみれば、このまま御館を攻めたいところでしたが、手持ちの兵が絶対的に足りません。そこで御館の補給線を断つべく、琵琶島城方面の攻勢を強めます。琵琶島城は鵜川を通じて柏崎の港とつながっていて、物資の集積地点となっていました。ここから海路を使用して直江津へと、御館の補給拠点となっていたのです。

 

補給路を巡る戦い。赤が景勝方、黄が景虎方の城です。11月に入り、景勝は旗持城の佐野清左衛門尉に琵琶島城への攻勢を命じます。これに対抗して景虎も琵琶島城に本庄秀綱を派遣しますが、以降は補給が滞りがちになってしまいます。なお春日山城坂戸城は松之山街道を通じて繋がっていますが、景虎方の高津城がそれを邪魔する形となっていました。

 

 年が明け1579年正月、景勝方は松之山街道を遮断する位置にあった高津城(大間城?)を陥落させます。これによって景勝の本拠地・上田庄と春日山城との連絡がスムーズになりました。補給路を脅かされる景虎方に対して、本拠地との連絡手段を回復した景勝方。形勢は完全に逆転したのです。

 

高津城の位置が今ひとつ比定できませんでしたが、おそらく奥高津の辺り、大間城付近にあったものと思われます。ここが陥落したことで、春日山と坂戸との連絡がより容易になりました。

 

 翌2月1日、ケリをつけるべく遂に景勝は御館を攻撃します。御館からは景虎方の軍事司令官である北条景弘が、自ら出撃してきます。海風が激しく吹き、雪が溶け足元が泥でぬかるむ中、未明より繰り広げられた戦いは、景広の戦死という形で決着がつきます。陣営の大物武闘派であり、精神的支柱でもあった彼が死んだことは、景虎にとっては大きなダメージでした。

 琵琶島城への圧力は続き、御館には物資の補給が滞っていました。3月2日、琵琶島城から何とか送り出した補給船団は直江津近郊で景勝方に補足され、壊滅してしまいます。これが決定打となりました。勝ち目はないと判断した兵が、御館からどんどん逃亡していきます。

 

景虎の重ねての要請に応じ、琵琶島城の前嶋修理亮は自ら船団を仕立て上げ、直江津に向かいました。しかし船団は景勝方の警戒網に補足され、船頭・水夫らは悉くなで斬りにあってしまいます。前嶋も戦死。雪解けまで何とか持ちこたえ、北条勢の到着を待つのが景虎の取れる唯一の方法でしたが、これで希望はなくなりました。なお琵琶島城そのものも、この戦いの後すぐに開城降伏したものと思われます。

 

 3月16日、御館に対する最後の総攻撃が始まりました。景虎は少数の兵に守られ、鮫ヶ尾城に落ち延びます。景勝の妹でもある、景虎の妻・清円院とその嫡男・道満丸、そして上杉憲政は御館に残りました。いずれも景勝の縁者ですから、助命を期待したのでしょう。しかし一行は春日山に輿で送られる途中、景勝の指示により惨殺されてしまったのでした。景勝は自らの妹、甥、義理の祖父を殺したことになります。

 道満丸は元来、上杉家の正統な跡継ぎではありましたが、この時すでに景勝は武田勝頼の妹を正室に迎え入れています。景勝にとっては、もはや邪魔なだけの存在でした。事ここまで至ってしまっては、仕方のないことだったでしょう。

 景虎が入った鮫ヶ尾城も、3月24日には陥落。景虎は正午に切腹し、最後まで付き従った郎党たちも、その悉くが討ち死にしたのでした。享年26。こうして上杉家を真っ二つに割った、お家騒動「御館の乱」は幕を閉じたのでした。

 

春日山城に登った後、御館にもいきましたが何も残っていませんでした。更にその後、鮫ヶ尾に行きました。鮫ヶ尾城は標高185mほどしかありませんが、それなりに剣俊です。武田家の侵攻に備えて、整備されなおした城でした。

 

鮫ヶ尾城本丸跡。景虎はここで切腹したものと思われます。最後は南の方角、生まれ故郷の関東に続く空を見上げたかもしれません。

 

頂上から平野を見下ろします。最期には景勝方の軍勢が、びっしり城を囲んでいたと思われます。御館・春日山城直江津が遥か遠くに見えます。鮫ヶ尾城主は、乱の当初から景虎と共にいた堀江宗親ですが、江戸期の文献には「最後に裏切った」と記載されているようです。ただ一次史料では、宗親の裏切りは確認されていません。堀江一族はこの戦い以降、歴史から姿を消してしまうので、最後まで付き従ったという説もあります。一族の滅亡と共に廃城になってしまったので、遺構は比較的よく残っていました。

 

 ただ景虎が死んだからといって、事態が治まったわけではありません。国内の反景勝勢力の抵抗は続いたのです。特に乱のきっかけをつくった三条城の神余親綱や、栃尾の本庄秀綱は徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。両者の鎮圧が終了したのは、これより1年以上後の、翌80年6月のことでした。

 この内乱は上杉家に深い傷を残しました。謙信以来の勇士たちの多くが倒れ、その勢力は大きく後退します。また景勝は中央集権志向であったことから、そうした考えに則って戦後処理を行ったのですが、これに納得がいかない者たちは多かったのです。

 その急先鋒が重臣新発田重家です。一族挙げて景勝に協力し、軍事的にも功績があったにもかかわらず、恩賞なしの本領安堵だけ。81年6月、新発田重家は同じように不満を抱えていた一部の揚北衆を誘い、挙兵します。この時、彼のバックにいたのは信長でした。この「新発田重家の乱」は7年の長さにも及ぶのです。一方、西からは信長がじわじわと押し寄せてきます。このまま何事もなければ、上杉家は滅んでいたのは間違いないでしょう。

 そんな中、1582年6月に「本能寺の変」が発生します。これで九死に一生を得た景勝は、豊臣政権に従属する形で生き残ることに成功するのでした。

 それにしても景虎が負けたのは、ひとえに実家である北条家の責が大きいと思われます。氏政はとにかく動きが鈍い!佐竹攻めの最中だったので、武田家に支援要請したまではまあいいとしましょう。しかし肝心の佐竹攻めは、6月7日には終了しているのです。

 その後、なにゆえ越後に急行しなかったのでしょうか。東上野において景虎派と景勝派の争いがあったので、その関係調整に手間取った、ということのようですが、それも7月17日には決着がつき、東上野は完全に景虎方になっています。

 なので、同月中には厩橋城の北条(きたじょう)勢、沼田城の河田勢らが主体となって、坂戸城を攻撃しています。この城攻めには、北条氏照・氏邦ら率いる北条本隊も後から合流してはいます。

 北条本隊が参戦した正確な時期が分からないのですが、事態のこう着状態からみて推測するに、8月に入ってからではないでしょうか。坂戸城を攻める際に重要な位置にある、樺野沢城を落としたのが9月に入ってからです。いくらなんでも遅すぎます。しかも氏政本人は、最後まで出陣しなかったのでした。

 要するに、全てを勝頼に丸投げしていたわけです。勝頼にしても「何で俺が・・・」といい気分はしなかったでしょう。氏政本人がもっと早く大軍を率いて急行していれば、坂戸城が陥落していた可能性が高く、御館の景虎と合流することもできたでしょう。そうなると勝頼も軽々に和睦仲介を続けることはできず、そのまま景虎が勝っていた可能性が高いのです。

 氏政はこういう判断ミスが多いような気がします。慎重になりすぎて決断を先送り、結局は虻蜂取らずで、何ら益することなく終わるパターンです。「三増峠の戦い」にしてもそうですし、最後は「小田原評定」で北条家を滅ぼしてしまう羽目になるのでした。(続く)

 

関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y) | 伊東 潤, 乃至 政彦 |本 | 通販 | Amazon

御館の乱」について書かれた決定版――といっても、同じネタについて書かれた本は、殆どないのであるが・・・これが素晴らしく分かりやすく、また面白いのである。謙信が考えていた後継者は景虎か景勝か?という議論は昔からあるのだが、道満丸に注目した人はこれまでになく、乃至氏のオリジナルなのである。当ブログの一連の記事もこの本が元ネタであり、是非に読んでほしいのだが、残念ながら絶版なのである・・・

 

謙信越山 (jbpressbooks)

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代わりと言ってはなんだが、同じ乃至氏による名著を紹介したい。謙信の関東侵攻について書かれた「謙信越山」。謙信の強さの秘密が分かる。こちらも名著である。

 

信長そして謙信、2人の目線から見た戦国時代。なお乃至氏は在野の日本史研究者である。ここまでレベルの高い本を在野の人が書くことに、日本の史学会の豊かさを感じる。