根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の逆徒」ルサンチマンからの脱却

 伊勢宗瑞こと、北条早雲国盗り物語があまりに面白くて、当初の予定よりも記事が長くなってしまった。著者の悪い癖である。このままだと北条家の歴史を追うだけで10記事くらいになってしまうので、細かいところは飛ばしてどんどん話を進めていきたいと思う。

 さて・・・遂に扇谷上杉氏を敵に回した伊勢宗瑞。これは北条家のみならず、その後の関東の歴史の方向性を決めてしまうほど、大きな決断であった。以降、北条家は東進し、関東を制覇せんとする道を歩むのである。

 だが扇谷上杉氏を敵に回すにあたって、問題がひとつあった。過去の記事で述べたように、関東において地縁も人縁もなかった宗瑞は、坂東武者たちにしてみれば「京から来た、よそ者」である。伊勢家は関東を侵攻する勢力の旗頭としてふさわしい家柄ではなかったし、支配者となる正統性もなかったといえる。

 彼個人が代わりに持っていたのは、京との太いパイプである。名を変える前は清晃という名の僧であった、第11代室町将軍・義澄とは京で顔見知りであったと思われる。将軍との個人的な繋がりはそれなりに武器にはなっただろうが、それだけではとても関東侵攻などできなかっただろう。同じように、京から関東公方として送り込まれた政知は、鎌倉に入れずに堀越公方として一生を終えているのだ。

 宗瑞は何といっても、今川家の重鎮であったことが大きかったのである。裏付けとなる兵力は勿論のこととして、名分という点でも大きかった。茶々丸征伐後、伊豆を治めるのに「駿河守護・今川家」の名は、重石として大いに役立ったのである。伊豆の国衆らは「伊勢家」に服属したのではなく、「今川家」に服属した、という認識であったのだろう。当然、宗瑞のことも「今川家の武将・伊勢宗瑞」と見ていたのだ。実際、伊豆を治めた後の1508年には、宗瑞は今川家の総大将として三河まで軍を率いている。

 1509年の宗瑞の相模侵攻も、扇谷上杉氏にしてみれば「今川家が侵攻してきた」という認識だったようだ。それは今川家も同じで、今川家の重臣・福島範為が京に送った書状には、相模における宗瑞の行動を今川家のものとして捉えている旨のものが残っている。この侵攻は、実際には宗瑞が勝手に始めたことであって、今川家としては殆ど関知していないことであっただろう。それでも宗瑞が今川家の家臣である以上は、その行動は今川家の名のもとに行ったことと捉えられていたのである。

 そういう意味では宗瑞の立ち位置は、何とも微妙なものであり、本来ならば伊豆は今川家のものになっていてもおかしくはないのだ。そうならなかったのは、甥である今川氏親と極めて良好な関係性にあったからだ。氏親とその母・北川殿は宗瑞のことを心底頼りにしていたのだ。これがもっと年配の力のある当主であったなら、伊豆の差配は今川家当主が行っていただろうから、宗瑞が伊豆を支配するチャンスは殆どなかったはずである。

 いずれにしても幕府の威光と、今川家の武将としての立ち位置。この2つこそが、宗瑞の関東侵攻と支配の名分を支えていたといえる。とはいえ、やはりその程度では納得しない者たちも多かったのだ。

 伊豆の茶々丸討伐戦において当初、宗瑞に従った比較的大身といえるほどの国衆は、伊東氏と富永氏のみである。推戴していた茶々丸の死により、狩野氏など他の伊豆の国衆も最終的には宗瑞に服属したようだが、そこに至るまでは苦労したようである。これも宗瑞の正統性、つまり名分の弱さが関係しているかもしれない。

 代わりと言っては何だが、宗瑞は国衆とは呼べないほど弱小な、いわゆる半農の土豪たちを味方につけることに尽力している。伊豆攻略の過程で、こうした土豪たちを取り込んで直臣としていくのである。代表的なものに清水氏があげられる。これは伊豆南部の加納郷を根拠とする土豪であったのだが、比較的早い時期に服属した功により、敵として滅ぼした国衆らの所領を多く与えられ、後年は伊豆郡代にまで取り立てられている。

 長くなってしまうので詳細は省くが、扇谷上杉氏との死闘を制した宗瑞は、1516年には伊豆に続いて相模一国を手に入れる。その2年後に代替わりがあって、伊勢家は息子・氏綱が継ぐことになる(宗瑞は翌年に死去)。そして継いだばかりの「伊勢」の名を捨て「北条」に名字を変える、という決断を下した人物こそが、この氏綱なのであった。

 鎌倉幕府において執権を務めた北条家の名を名乗ることによって、伊勢家改め北条家は、遂に関東支配の名分を手に入れ、「他国の逆徒」と呼ばれたルサンチマンからの脱却を果たすのであった。(この氏綱による北条家の名乗りは、これまで全く根拠のない強引なものと思われていた。だが近年の研究によると、氏綱の正室が執権・北条家の末裔を名乗っていた横井氏出身である可能性が高い、とのことで全く根拠がなかったわけではないらしい)

 

小田原城蔵「北条氏綱肖像画」。宗瑞と氏康の間に挟まれて、やや影の薄い印象の二代目・氏綱であるが、彼も大変な名君である。北条氏の戦国大名として独り立ちは、この氏綱によって成されたのだ。伊豆と相模の国盗りを成し遂げた偉大なる父・宗瑞であるが、実のところ彼には「国を造る」とか「大名になる」などといった長期的なビジョンがあったわけではく、ただ目の前のことを精一杯こなしていった結果、伊豆・相模を手に入れた、というのが真相ではなかったろうか。そういう意味では、宗瑞は今川家の家臣であるという意識を、晩年まで持ち続けていたように見受けられる。だが氏綱は違った。宿敵・武田家と勝手に和睦した義元の決断を、「許せぬ」として今川領に攻め入ったのが、この氏綱である。今川家はもはや北条家の主筋ではなく、対等な存在である、と行動で示したのであった。関東への侵攻も引き続き行い、第一次国府台合戦 では小弓公方足利義明を討ち取っており、下総まで進出し領土を大きく拡大している。

 

 この後、北条家は氏綱・氏康・氏政と、関東への侵攻を進めていく。そのスピードは決して早いものではなく、さながら三歩進んで二歩下がるといった態のものであったが、実に確実なものであった。次回の記事では、北条家における関東支配の構造を見ていくことにしよう。(続く)